これまではぼんやりとしか見えなかった山々の襞《ひだ》までが一つ一つくっきりと見えてくるように、過ぎ去った日々のとりとめのない思い出が、その微細なものまで私に思い出されてくるような気がする。が、それはそんな気もちのするだけで、私のうちにはただ、何んとも云いようのない悔いのようなものが湧いてくるばかりだ。
日暮れどきなど、南の方でしきりなしに稲光りがする。音もなく。私はぼんやり頬杖をついて、若い頃よくそうする癖があったように窓硝子《まどガラス》に自分の額を押しつけながら、それを飽かずに眺めている。痙攣的《けいれんてき》に目たたきをしている、蒼ざめた一つの顔を硝子の向うに浮べながら……
その冬になってから、私は或る雑誌に森さんの「半生」という小説を読んだ。これがあのO村で暗示を得たと仰しゃっていた作品なのであろうと思われた。御自分の半生を小説的にお書きなさろうとしたものらしかったが、それにはまだずっとお小さい時のことしか出て来なかった。そういう一部分だけでも、あの方がどういうものをお書きになろうとしているのか見当のつかない事もなかった。が、この作品の調子には、これまであの方の作品についぞ見たことのないような不思議に憂鬱《ゆううつ》なものがあった。しかしその見知らないものは、ずっと前からあの方の作品のうちに深く潜在していたものであって、唯、われわれの前にあの方の佯《いつ》われていた brilliant な調子のためすっかり掩《おお》いかくされていたに過ぎないように思われるものだった。――こういう生《なま》な調子でお書きになるのはあの方としては大へんお苦しいだろうとはお察しするが、どうか完成なさるようにと心からお祈りしていた。が、その「半生」は最初の部分が発表されたきりで、とうとうそのまま投げ出されたようだった。それは何か私にはあの方の前途の多難なことを予感させるようでならなかった。
二月の末、森さんがその年になってからの初めてのお手紙を下さった。私の差し上げた年賀状にも返事の書けなかったお詫《わ》びやら、暮からずっと神経衰弱でお悩みになっていられることなど書き添えられ、それに何か雑誌の切り抜きのようなものを同封されていた。何気なくそれを披《ひら》いてみると、それは或る年上の女に与えられた一聯《いちれん》の恋愛詩のようなものであった。何んだってこんなものを私のところにお送りになったのかしらといぶかりながら、ふと最後の一節、――「いかで惜しむべきほどのわが身かは。ただ憂ふ、君が名の……」という句を何んの事やら分らずに口ずさんでいるうち、これはひょっとすると私に宛てられたものかも知れないと思い出した。そう思うと、私は最初何んとも云えずばつの悪いような気がした。――それから今度は、それが若《も》し本当にそうなのなら、こんなことをお書きになったりしては困ると云う、ごく世間並みの感情が私を支配し出した。……たとえ、そういうお気持がおありだったにせよ、そのままそっとしておいたら、誰も知らず、私も知らず、そして恐らくあの方自身も知らぬ間にそれは忘れ去られ、葬られてしまうにちがいない。何故そんな移ろい易いようなお気持を、こんな婉曲《えんきょく》な方法にせよ、私にお打ち明けになったのだろう? いままでのように、向うもこちらもそういう気持を意識せずにおつきあいしているのならいいが、いったん意識し合った上では、もうこれからはお逢いすることさえ出来ない。……
そうして私はあの方のそんな一人よがりをお責めしたい気もちで一ぱいになっていた。しかし、そういうあの方を私はどうしても憎むような気もちにはなれなかった。そこに私の弱みがあったように思われる。……が、私はその数篇の詩が私に宛てられたものであることを知り得るのは、恐らく私一人ぐらいなものであろうことに気がつくと、何かほっとしながら、その紙片を破らずに自分の机の抽出《ひきだ》しのずっと奥の方に蔵《しま》ってしまった。そうして私は何んともないような風をしていた。
丁度、お前たちと夕方の食事に向っている時だった。私はスウプを啜《すす》ろうとしかけたとき、ふとあの紙片が「昴《すばる》」からの切り抜きであったことを憶《おも》い出《だ》した。(それまでもそれに気がついていたが、それが何んの雑誌だろうと私は別に問題にしていなかったのだ。)そしてその雑誌なら、毎号私のところにも送ってきてある筈だが、この頃手にもとらずに放ってあるので、若しかしたら私の知らぬ間に、兄さんはともかく、お前はもうその詩を読んでいるかも知れなかった。これは飛んでもないことになった、と私ははじめて考え出した。何んだか気のせいか、お前はさっきから私の方を見て見ないふりをしておいでのようでならなかった。すると突然、私のうちに誰にともつかない怒りがこみ上げてきた。しかし私はいかにも虔《つつ》ましそうにスウプの匙《さじ》を動かしていた。……
その日からというもの、私はあの方が私のまわりにお拡げになった、見知らない、なんとなく胸苦しいような雰囲気のなかに暮らしだした。私のお逢いする人達といえば、誰もかもみんなが私を何かけげんそうな顔をして見ているような気がされてならなかった。そうしてそれから数週間というものは、私はお前たちに顔を合わせるのさえ避けるようにして、自分の部屋に閉《と》じ籠《こも》っていた。私はただじっとして私の身に迫ろうとしている何やら私にも分からないものから身をはずしながら、それが私たちの傍を通り過ぎてしまうのを待っているより他はないような気がした。とにかくそれを私たちの中にはいりこませ、縺《もつ》れさせさえしなければ、私たちは救われる。そう私は信じていた。
そうして私はこんな思いをしているよりも一層のこと早く年をとってしまえたらとさえ思った。自分さえもっと年をとってしまい、そうしてもう女らしくなくなってしまえたら、たとえ何処であの方とお逢いしようとも、私は静かな気もちでお話が出来るだろう。――しかし今の私は、どうも年が中途半端なのがいけないのだ。ああ、一ぺんに年がとってしまえるものなら……
そんなことまで思いつめるようにしながら、私はこの日頃、すこし前よりも痩《や》せ、静脈のいくぶん浮きだしてきた自分の手をしげしげと見守っていることが多かった。
その年は空梅雨であった。そうして六月の末から七月のはじめにかけて、真夏のように暑い日照りが続いていた。私はめっきり身体が衰えたような気がし、一人だけ先きに、早目にO村に出かけた。が、それから一週間するかしないうちに、急に梅雨気味の雨がふりだし、それが毎日のように降り続いた。間歇的《かんけつてき》に小止みにはなったが、しかしそんなときは霧がひどくて、近くの山々すら殆んどその姿を見せずにいた。
私はそんな鬱陶しいお天気をかえって好いことにしていた。それが私の孤独を完全に守っていて呉れたからだった。一日は他の日に似ていた。ひえびえとした雨があちらこちらに溜《たま》っている楡《にれ》の落葉を腐らせ、それを一面に臭わせていた。ただ小鳥だけは毎日異ったのが、かわるがわる、庭の梢にやってきて異った声で啼《な》いていた。私は窓に近よりながら、どんな小鳥だろうと見ようとすると、この頃すこし眼が悪くなってきたのか、いつまでもそれが見あたらずにいることがあった。そのことは半ば私を悲しませ、半ば私の気に入った。が、そうしていつまでもうつけたように、かすかに揺れ動いている梢を見上げていると、いきなり私の眼の前に、蜘蛛《くも》が長く糸をひきながら落ちてきて、私をびっくりさせたりした。
そのうちに、こんなに悪い陽気だけれど、ぼつぼつと別荘の人たちも来だしたらしい。二三度、私は裏の雑木林のなかを、淋しそうにレエンコオトをひっかけたきりで通って行く明さんらしい姿をお見かけしたが、まだ私きりなことを知っていらっしゃるからか、いつもうちへはお立寄りにならなかった。
八月にはいっても、まだ梅雨じみた天候がつづいていた。そのうちにお前もやって来たし、森さんがまたK村にいらしっているとか、これからいらっしゃるのだとか、あんまりはっきりしない噂を耳にした。何故またこんな悪い陽気だのにあの方はいらっしゃるのかしら? あそこまでいらっしたら、こちらへもお見えになるかも知れないが、私はいまのような気もちではまだお目にかからない方がいいと思う。しかしそんな手紙をわざわざ差し上げるのも何んだから、いらしったらいらしったでいい、その時こそ、私はあの方によくお話をしよう。その場に菜穂子も呼んで、あの子によく納得できるように、お話をしよう。何を云おうかなどとは考えない方がいい。放っておけば、云うことはひとりでに出てくるものだ……。
そのうちときどき晴れ間も見えるようになり、どうかすると庭の面にうっすらと日の射し込んでくるようなこともあった。すぐまたそれは翳《かげ》りはしたけれど。私は、この頃庭の真んなかの楡の木の下に丸木のベンチを作らせた、そのベンチの上に楡《にれ》の木の影がうっすらとあたったり、それがまた次第に弱まりながら、だんだん消えてゆきそうになる――そういう絶え間のない変化を、何かに怯《おび》やかされているような気もちがしながら見守っていた。あたかもこの頃の自分の不安な、落ちつかない心をそっくりそのままそれに見出しでもしているように。
それから数日後、かあっと日の照りつけるような日が続きだした。しかしその日ざしはすでに秋の日ざしであった。まだ日中はとても暑かったけれども。――森さんが突然お見えになったのは、そんな日の、それも暑いさかりの正午近くであった。
あの方は驚くほど憔悴《しょうすい》なすっていられるように見えた。そのお痩《や》せ方やお顔色の悪いことは、私の胸を一ぱいにさせた。あの方にお逢いするまでは、この頃、目立つほど老けだした私の様子を、あの方がどんな眼でお見になるかとかなり気にもしていたが、私はそんなことはすっかり忘れてしまった位であった。そうして私は気を引き立てるようにしてあの方と世間並みの挨拶などを交わしているうちに、その間私の方をしげしげと見ていらっしゃるあの方の暗い眼ざしに私の窶《やつ》れた様子があの方をも同じように悲しませているらしいことをやっと気づき出した。私は心の圧《お》しつぶされそうなのをやっと耐えながら、表面だけはいかにももの静かな様子を佯っていた。が、私にはその時それが精一ぱいで、あの方がいらしったらお話をしょうと決心していたことなどは、とてもいま切り出すだけの勇気はないように思えた。
やっと菜穂子が女中に紅茶の道具を持たせて出て来た。私はそれを受取って、あの方にお勧めしながら、お前が何かあの方に無愛想なことでもなさりはすまいかと、かえってそんなことを気にしていた。が、その時、私の全く思いがけなかったことには、お前はいかにも機嫌よさそうに、しかも驚くほど巧みな話しぶりであの方の相手をなさり出したのだ。この頃自分のことばかりにこだわっていて、お前たちのことはちっとも構わずにいたことを反省させられたほど、そのときのお前のおとなびた様子は私には思いがけなかった。――そう云うお前を相手になさっている方があの方にもよほど気軽だと見え、私だけを相手にされていた時よりもずっと御元気になられたようだった。
そのうちに話がちょっと途絶えると、あの方はひどくお疲れになっていられるような御様子だのに、急に立ち上がられて、もう一度去年見た村の古い家並みが見てきたいと仰しゃられるので、私たちもそこまでお伴《とも》をすることにした。しかし丁度日ざかりで、砂の白く乾いた道の上には私たちの影すらほとんど落ちない位だった。ところどころに馬糞《ばふん》が光っていた。そうしてその上にはいくつも小さな白い蝶がむらがっていた。やっと村にはいると、私たちはときどき日を除《よ》けるため道ばたの農家の前に立ち止まって、去年と同じように蚕を飼っている家のなかの様子を窺《うかが》ったり、私たちの頭の上にいまにも崩れて来
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