なえるだろう事を思うと、もううんざりして何んにも云い出す気がなくなるのだった。――それに菜穂子を連れ戻して来たって、母と妻とのこれまでの折合《おりあい》考えると、彼女の為合せのために自分が何をしてやれるか、圭介自身にも疑問だった。
そして結局は、すべての事が今までの儘にされていたのだった。
或|野分立《のわきだ》った日、圭介は荻窪の知人の葬式に出向いた帰《かえ》り途《みち》、駅で電車を待ちながら、夕日のあたったプラットフォームを一人で行ったり来たりしていた。そのとき突然、中央線の長い列車が一陣の風と共にプラットフォームに散らばっていた無数の落葉を舞い立たせながら、圭介の前を疾走して行った。圭介はそれが松本行の列車であることに漸《や》っと気がついた。彼はその長い列車が通り過ぎてしまった跡も、いつまでも舞い立っている落葉の中に、何か痛いような眼つきをしてその列車の去った方向を見送っていた。それが数時間の後には、信州へはいり、菜穂子のいる療養所の近くを今と同じような速力で通過することを思い描きながら。……
生れつき意中の人の幻影をあてもなく追いながら町の中を一人でぶらついたりする事の出来なかった圭介は、思いがけずそのとき妻の存在が一瞬まざまざと全身で感ぜられたものだから、それからは屡々《しばしば》会社の帰りの早いときなどには東京駅からわざわざ荻窪の駅まで省線電車で行き、信州に向う夕方の列車の通過するまでじっとプラットフォームに待っていた。いつもその夕方の列車は、彼の足もとから無数の落葉を舞い立たせながら、一瞬にして通過し去った。その間、彼が食い入るような眼つきで一台一台見送っていたそれらの客車と共に、彼の内から一日じゅう何か彼を息づまらせていたものが俄《にわ》かに引き離され、何処へともなく運び去られるのを、彼は切ないほどはっきりと感ずるのだった。
十五
山では秋らしく澄んだ日が続いていた。療養所のまわりには、どっちへ行っても日あたりの好い斜面がある。菜穂子は毎日日課の一つとして、いつも一人で気持ちよく其処此処を歩きながら、野茨《のいばら》の真赤な実なぞに目を愉《たの》しませていた。温かな午後には、牧場の方までその散歩を延ばして、柵《さく》を潜り抜け、芝草の上をゆっくりと踏みながら、真ん中に一本ぽつんと立った例の半分だけ朽ちた古い木にまだ黄ばんだ葉がいくらか残って日にちらちらしているのが見えるところまで歩いて行った。日の短くなる頃で、地上に印せられたその高い木の影も、彼女自身の影も、見る見るうちに異様に長くなった。それに気がつくと、彼女は漸っとその牧場から療養所の方へ帰って来た。彼女は自分の病気の事も、孤独の事も忘れていることが多かった。それほど、すべての事を忘れさせるような、人が一生のうちでそう何度も経験出来ないような、美しい、気散じな日々だった。
しかし夜は寒く、淋しかった。下の村々から吹き上げてきた風が、この地の果てのような場所まで来ると、もう何処へいったらいいか分からなくなってしまったとでも云うように、療養所のまわりをいつまでもうろついていた。誰かが締めるのを忘れた硝子窓《ガラスまど》が、一晩中、ばたばた鳴っているような事もあった。……
或日、菜穂子は一人の看護婦から、その春独断で療養所を出ていったあの若い農林技師がとうとう自分の病気を不治のものにさせて再び療養所に帰って来たという事を聞いた。彼女はその青年が療養所を立って行くときの、元気のいい、しかし青ざめ切った顔を思い浮べた。そしてそのときの何か決意したところのあるようなその青年の生き生きした眼ざしが彼を見送っていた他の患者達の姿のどれにも立ち勝って、強く彼女の心を動かした事まで思い出すと、彼女は何か他人事《ひとごと》でないような気がした。
冬はすぐ其処まで来ているのだけれど、まだそれを気づかせないような温かな小春日和《こはるびより》が何日か続いていた。
十六
おようは、二月《ふたつき》の余も病院で初枝を徹底的に診て貰っていたが、その効はなく、結局医者にも見放された恰好《かっこう》で、再び郷里に帰って行った。O村からは、牡丹屋の若い主婦《おかみ》さんがわざわざ迎えに来た。
二週間ばかり建築事務所を休んでいた明は、それを知ると、喉《のど》に湿布をしながら、上野駅まで見送りに行った。初枝は、およう達に附添われて、車夫に背負われた儘《まま》、プラットフォームにはいって来た。明の姿を見かけると、きょうは殊更に血の気を頬に透かせていた。
「御機嫌よう。どうぞ貴方様もお大事に――」おようは、明の病人らしい様子を反って気づかわしそうに眺めながら、別れを告げた。
「僕は大丈夫です。事によったら冬休みに遊びに行きますから待っていて下さい」明はおようや初枝に寂しいほほ笑みを浮べて見せながら、そんな事を約束した。「では御機嫌よう」
汽車はみるみる出て行った。汽車の去った跡、プラットフォームには急に冬らしくなった日差しがたよりなげに漂った。其処にぽつねんと一人残された明には、何か爽《さわ》やかな気分になり切れないものがあった。さて、これからどうしようかと云ったように、彼は何をするのも気だるそうに歩きだした。そして心の中でこんな事を考えていた。――結局は医者に見放されて郷里へ帰って行ったおようにも病人の初枝にも、さすがに何か淋しそうなところはあったけれども、それにしても世の中に絶望したような素振りは何処にも見られなかったではないか。寧《むし》ろ、二人ともO村へ早く帰れるようになったので、何かほっとして、いそいそとしているような安心な様子さえしていたではないか。此の人達には、それほど自分の村だとか家だとかが好いのだろうか?
「だが、そんなものの何んにもない此のおれは一体どうすれば好いのか? 此の頃のおれの心の空しさは何処から来ているのだ? ……」そう云う彼の心の空しさなど何事も知らないでいるようなおよう達に逢っていると、自分だけが誰にも附いて来られない自分勝手な道を一人きりで歩き出しているような不安を確めずにはいられなくなる一方、その間だけは何かと心の休まるのを覚えたのも事実だった。そのおよう達も遂に彼から去った今、彼の周囲で彼の心を紛わせてくれるものとてはもう誰一人いなくなった。そのとき彼は急に思い出したように烈《はげ》しい咳をしはじめ、それを抑えるために暫く背をこごめながら立ち止っていた。彼が漸《や》っとそれから背をもたげたときは、構内にはもう人影が疎《まば》らだった。「――いま事務所でおれにあてがわれている仕事なんぞは此のおれでなくったって出来る。そんな誰にだって出来そうな仕事を除いたら、おれの生活に一体何が残る? おれは自分が心からしたいと思った事をこれまでに何ひとつしたか? おれは何度今までにだって、いまの勤めを止め、何か独立の仕事をしたいと思ってそれを云い出しかけては、所長のいかにも自分を信頼しているような人の好さそうな笑顔を見ると、それもつい云いそびれて有耶無耶《うやむや》にしてしまったか分からない。そんな遠慮ばかりしていて一体おれはどうなる? おれはこんどの病気を口実に、しばらく又休暇を貰って、どこか旅にでも出て一人きりになって、自分が本気で求めているものは何か、おれはいま何にこんなに絶望しているのか、それを突き止めて来ることは出来ないものか? おれがこれまでに失ったと思っているものだって、おれは果してそれを本気で求めていたと云えるか? 菜穂子にしろ、早苗にしろ、それからいま去って行ったおよう達にしろ、……」
そう明は沈鬱《ちんうつ》な顔つきで考え続けながら、冬らしい日差しのちらちらしている構内を少し背をこごめ気味にして歩いて行った。
十七
八ヶ岳にはもう雪が見られるようになった。それでも菜穂子は、晴れた日などには、秋からの日課の散歩を廃《よ》さなかった。しかし太陽が赫《かがや》いて地上をいくら温めても、前日の凍《こご》えからすっかりそれをよみ返らせられないような、高原の冬の日々だった。白い毛の外套《がいとう》に身を包んだ彼女は、自分の足の下で、凍えた草のひび割れる音をきくような事もあった。それでもときおりは、もう牛や馬の影の見えない牧場の中へはいって、あの半ば立ち枯れた古い木の見えるところまで、冷い風に髪をなぶられながら行った。その一方の梢にはまだ枯葉が数枚残り、透明な冬空の唯一の汚点となった儘、自らの衰弱のためにもう顫《ふる》えが止まらなくなったように絶えず顫えているのを暫く見上げていた。それから彼女はおもわず深い溜息《ためいき》をつき療養所へ戻って来た。
十二月になってからは、曇った、底冷えのする日ばかり続いた。この冬になってから、山々が何日も続いて雪雲に蔽《おお》われていることはあっても、山麓《さんろく》にはまだ一度も雪は訪れずにいた。それが気圧を重くるしくし、療養所の患者達の気をめいらせていた。菜穂子ももう散歩に出る元気はなかった。終日、開け放した寒い病室の真ん中の寝台にもぐり込んだ儘、毛布から目だけ出して、顔じゅうに痛いような外気を感じながら、暖炉が愉《たの》しそうに音を立てている何処かの小さな気持ちのいい料理店の匂だとか、其処を出てから町裏の程よく落葉の散らばった並木道をそぞろ歩きする一時《ひととき》の快さなどを心に浮べて、そんななんでもないけれども、いかにも張り合いのある生活がまだ自分にも残されているように考えられたり、又時とすると、自分の前途にはもう何んにも無いような気がしたりした。何一つ期待することもないように思われるのだった。
「一体、わたしはもう一生を終えてしまったのかしら?」と彼女はぎょっとして考えた。「誰かわたしにこれから何をしたらいいか、それともこの儘何もかも詮《あきら》めてしまうほかはないのか、教えて呉れる者はいないのかしら? ……」
或日、菜穂子はそんなとりとめのない考えから看護婦に呼《よ》び醒《さ》まされた。
「御面会の方がいらしっていますけれど……」看護婦は彼女に笑を含んだ目で同意を求め、それから扉の外へ「どうぞ」と声をかけた。
扉の外から、急に聞き馴れない、烈しい咳きの声が聞え出した。菜穂子は誰だろうと不安そうに待っていた。やがて彼女は戸口に立った、背の高い、痩《や》せ細《ほそ》った青年の姿を認めた。
「まあ、明さん。」菜穂子は何か咎《とが》めるようなきびしい目つきで、思いがけない都築明のはいって来るのを迎えた。
明は戸口に立った儘《まま》、そんな彼女の目つきに狼狽《うろた》えたような様子で、鯱張《しゃちほこば》ったお辞儀をした。それから相手の視線を避けるように病室の中を大きな眼をして見廻わしながら、外套《がいとう》を脱ごうとして再び烈《はげ》しく咳き入っていた。
寝台に寝た儘、菜穂子は見かねたように云った。「寒いから、着たままでいらっしゃい。」
明はそう云われると、素直に半分脱ぎかけた外套を再び着直して、寝台の上の菜穂子の方へ笑いかけもせず見つめた儘、次いで彼女から云われる何かの指図を待つかのように突立っていた。
彼女は改めてそう云う相手の昔とそっくりな、おとなしい、悪気のない様子を見ていると、なぜか痙攣《けいれん》が自分の喉元《のどもと》を締めつけるような気がした。しかし又、此の数年の間、――殊に彼女が結婚してからは殆ど音沙汰のなかった明が、何のためにこんな冬の日に突然山の療養所まで訪ねて来るような気になったのか、それが分からないうちは彼女はそう云う相手の悪気のなさそうな様子にも何か絶えずいらいらし続けていなければならなかった。
「そこいらにお掛けになるといいわ」菜穂子は寝たまま、いかにも冷やかな目つきで椅子を示しながら、そう云うのが漸《や》っとだった。
「ええ」と明はちらりと彼女の横顔へ目を投げ、それから又急いで目を外《そ》らせるようにしながら、端近い革張の椅子に腰を下ろした。「此処へ来ていらっしゃるという事を旅の出がけに聞いたので、汽車の中で急に思い
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