うといまいと構わないように、黙って頷《うなず》いただけだった。
「何あに、此處にもう暫く落ち著いていれば、お前なんぞはすぐ癒《なお》るさ。」圭介はさっき思わず目に入れたあの喀血患者の死にかかった鳥のような無気味な目つきを浮べながら、菜穂子の方へ思い切って探るような目を向けた。
 しかし彼はそのとき菜穂子の何か彼を憐れむような目つきと目を合わせると、思わず顔をそむけ、どうして此の女はいつもこんな目つきでしか俺を見られないんだろうと訝《いぶか》りながら、雨のふきつけている窓の方へ近づいて行った。窓の外には、向う側の病棟も見えない位飛沫を散らしながら、木々が木の葉をざわめかせていた。

 暮方になっても、この荒れ気味の雨は歇《や》まず、そのため圭介もいっこう帰ろうとはしなかった。とうとう日が暮れかかって来た。
「ここの療養所へ泊めて貰えるかしら?」窓ぎわに腕を組んで木々のざわめきを見つめていた圭介が不意に口をきいた。
 彼女は訝かしそうに返事をした。「泊って入らっしゃっていいの? そんなら村へ行けば宿屋だってないことはないわ。しかし、此処じゃ……」
「しかし此処だって泊めて貰えないことはないんだろう。おれは宿屋なんぞより此処の方が余っ程好い。」彼はいまざらのように狭い病室の中を見廻した。
「一晩位なら、此処の床板だって寝られるさ。そう寒いというほどでもないし……」
 菜穂子は「まあ此の人が……」と驚いたようにしげしげと圭介を見つめた。それから云っても云わなくとも好い事を云うように、「変っているわね……」と軽く揶揄《やゆ》した。しかし、そのときの菜穂子の揶揄するような眼ざしには圭介を苛《い》ら苛《い》らさせるようなものは何一つ感ぜられなかった。
 圭介はひとりで女の多い附添人達の食堂へ夕食をしに行き、当直の看護婦に泊る用意もひとりで頼んで来た。

 八時頃、当直の看護婦が圭介のために附添人用の組立式のベッドや毛布などを運んで来て呉れた。看護婦が夜の検温を見て帰った後、圭介は一人で無器用そうにベッドをこしらえ出した。菜穂子は寝台の上から、不意と部屋の隅に圭介の母の少し険を帯びた眼ざしらしいものを感じながら、軽く眉をひそめるようにして圭介のする事を見ていた。
「これでベッドは出来たと……」圭介はそれを試めすように即製のベッドに腰をかけて見ながら、衣嚢《かくし》に手を突込んで何か探しているような様子をしていたが、やがて巻煙草を一本とり出した。
「廊下なら煙草をのんで来てもいいかな。」
 菜穂子はしかしそれには取り合わないように黙っていた。
 圭介はとりつく島もなさそうに、のそのそと廊下へ出て行ったが、そのうちに彼が煙草をのみながら部屋の外を行ったり来たりしているらしい足音が聞えて来た。菜穂子はその足音と木の葉をざわめかせている雨風の音とに代る代る耳を傾けていた。
 彼が再び部屋に入って来ると、蛾が妻の枕もとを飛び廻り、天井にも大きな狂おしい影を投げていた。
「寝る前にあかりを消してね。」彼女がうるさそうに云った。
 彼は妻の枕もとに近づき、蛾を追い払って、あかりを消す前に、まぶしそうに目をつぶっている彼女の眼のまわりの黒ずんだ暈《くま》をいかにも痛々しそうに見やった。

「まだおやすみになれないの?」暗がりの中から菜穂子はとうとう自分の寝台の裾の方でいつまでもズック張のベッドを軋《きし》ませている夫の方へ声をかけた。
「うん……」夫はわざとらしく寝惚《ねぼ》けたような声をした。「どうも雨の音がひどいなあ。お前もまだ寝られないのか?」
「私は寝られなくったって平気だわ。……いつだつてそうなんですもの……」
「そうなのかい。……でも、こんな晩はこんな所に一人でなんぞ居るのは嫌だろうな。……」圭介はそういいかけて、くるりと彼女の方へ背を向けた。それは次の言葉を思い切って云うためだった。「……お前は家へ帰りたいとは思わないかい?」
 暗がりの中で菜穂子は思わず身を竦《すく》めた。「身体がすっかり好くなってからでなければ、そんな事は考えないことにしていてよ。」そう云ったぎり、彼女は寝返りを打って黙り込んでしまった。
 圭介もその先はもう何んにも云わなかった。二人を四方から取り囲んだ闇は、それから暫くの間は、木々をざわめかす雨の音だけに充たされていた。

   十二

 翌日、菜穂子は、風のために其処へたたきつけられた木の葉が一枚、窓硝子《まどガラス》の真ん中にぴったりとくっついた儘《まま》になっているのを不思議そうに見守っていた。そのうちに何か思い出し笑いのようなものをひとりでに浮べている自分自身に気がついて、彼女は思わずはっとした。
「後生だから、お前、そんな眼つきでおれを見る事だけはやめて貰えないかな。」帰りぎわに圭介は相変らず彼女から眼を外らせながら軽く抗議した。――彼女は、いま、嵐の中でそれだけが麻痺《まひ》したようになっている一枚の木の葉を不思議そうに見守っている自分の眼つきから不意とその夫の意外な抗議を思い出したのだった。
「何もこんな私の眼つきはいま始まった事ではない。娘の時分から、死んだ母などにも何かと嫌がられたものだけれど、あの人は漸《や》っといまこれに気がついたのかしら。それとも今までそれが気になっていても私に云い得ず、漸っときょう打解けて云えるようになったのかしら。何だかゆうべなどはまるであの人でない見たいだつた。……だが、相変らず気の小さなあの人は、汽車の中でこんな嵐に逢ってどんなに一人で怖がっているだろう。……」
 一晩じゅう何かに怯《おび》えたように眠れない夜を明かした末、翌日の午《ひる》近く漸《ようや》く雲が切れ、一面に濃い霧が拡がり出すのを見ると、ほっとしたような顔をして停車場へ急いで行ったが、又天候が一変して、汽車に乗り込んだか乗り込まないかの内にこんな嵐に遭遇している夫の事を、菜穂子は別にそう気を揉《も》みもしないで思いやりながら、何時かまた窓硝子に描かれたようにこびりついている一枚の木の葉を何か気になるように見つめ出していた。そのうちに、彼女はまた自分でも気づかない程かすかに笑いを洩らしはじめていた。……

 その同じ頃、黒川圭介を乗せた上り列車は、嵐に揉まれながら、森林の多い国境を横切っていた。
 圭介にとっては、しかしその嵐以上に、山の療養所で経験したすべての事が異常で、いまだに気がかりでならなかった。それは彼にとっては、云わば或未知の世界との最初の接触だった。往きのときよりももっとひどい嵐のため、窓とすれすれのところで苦しげに葉を揺すりながら身悶《みもだ》えしているような樹々の外には殆ど何も見えない客車の中で、圭介は生れてはじめての不眠のためにとりとめもなくなった思考力で、いよいよ孤独の相を帯び出した妻の事だの、その傍でまるで自分以外のものになったような気持で一夜を明かしたゆうべの自分自身の事だの、大森の家で一人でまんじりともしないで自分を待ち続けていたであろう母の事だのを考え通していた。此の世に自分と息子とだけいればいいと思っているような排他的な母の許《もと》で、妻まで他処《よそ》へ逐《お》いやって、二人して大切そうに守って来た一家の平和なんぞというものは、いまだに彼の目先にちらついている、菜穂子がその絵姿の中心となった、不思議に重厚な感じのする生と死との絨毯《じゅうたん》の前にあっては、いかに薄手《うすで》なものであるかを考えたりしていた。彼のいま陥《お》ち込《こ》んでいる異様な心的興奮が何かそんな考えを今までの彼の安逸さを根こそぎにする程にまで強力なものにさせたのだった。――森林の多い国境辺を汽車が嵐を衝《つ》いて疾走している間、圭介はそう云う考えに浸り切りになって殆ど目もつぶった儘にしていた。ときおり外の嵐に気がつくようにはっとなって目をひらいたが、しかし心《しん》が疲れているので、おのずから目がふさがり、すぐまた夢うつつの境に入って行くのだった。そこでは又、現在の感覚と、現在思い出しつつある感覚とが絡《から》まり合《あ》って、自分が二重に感ぜられていた。いま一心に窓外を見ようとしながら何も見えないので空《くう》を見つめているだけの自分自身の眼つきが、きのう山へ著《つ》くなり或半開の扉のかげからふと目を合わせてしまった瀕死《ひんし》の患者の無気味な眼つきに感ぜられたり、或はいつも自分がそれから顔をそらせずにはいられない菜穂子の空《うつ》けたような眼ざしに似て行くような気がしたり、或はその三つの眼ざしが変に交錯し合ったりした。……
 急に窓のそとが明るくなり出した事が、そう云う彼をも幾分ほっとさせた。曇った硝子を指で拭いて外を見ると、汽車が漸っと国境辺の山地を通り過ぎて、大きな盆地の真ん中へ出て来たためらしかった。風雨はいまだに弱まらないでいた。圭介の空け切った眼には、そこら一帯の葡萄畑《ぶどうばたけ》の間に五六人ずつ蓑《みの》をつけた人達が立って何やら喚き合っているような光景がいかにも異様に映った。そういう葡萄畑の人達の只ならぬ姿が何人も何人も見かけられるようになった頃には、車内もおのずから騒然とし出していた。ゆうべの豪雨が此の地方では多量の雹《ひょう》を伴っていたため、漸く熟れ出した葡萄の畑という畑がこっぴどくやられ、農夫達は今のところは手を拱《こま》ねいて嵐のやむのをただ見守っているのだと云う事が、周囲の人々の話から圭介にも自然分かって来た。
 駅に著く毎に、人々の騒ぎが一層物々しくなり、雨の中をびしょ濡れになった駅員が何か罵《ののし》りながら走り去るような姿も窓外に見られた。

 汽車がそんな惨状を示した葡萄畑の多い平地を過ぎた後、再び山地にはいり出した頃は、遂に雲が切れ目を見せ、ときどきそこから日の光が洩れて窓硝子をまぶしく光らせた。圭介は漸く覚醒《かくせい》した人になり始めた。同時に彼には、今までの彼自身が急に無気味に思え出した。もうあの瀕死の鳥のような病人の異様な眼つきも、それを知《し》らず識《し》らずに真似していたような自分自身のいましがたの眼つきもけろりと忘れ去り、唯、菜穂子の痛々しい眼ざしだけが彼の前に依然として鮮かに残っているきりだった。……
 汽車が雨あがりの新宿駅に著いた頃には、構内いっぱい西日が赤あかと漲《みなぎ》っていた。圭介は下車した途端に、構内の空気の蒸し蒸ししているのに驚いた。ふいと山の療養所の肌をしめつけるような冷たさが快くよみ返って来た。彼はプラットフォームの人込みを抜けながら、何やらその前に人だかりがしているのを見ると、何んの気なしに足を駐《と》めて掲示板を覗いた。それは今彼の乗って来た中央線の列車が一部不通になった知らせだった。それで見ると、彼の乗り合わせていた列車が通過した跡で、山峡の或鉄橋が崩壊し、次ぎの列車から嵐の中に立往生になったらしかった。
 圭介はそれを知ると、何んだ、そんな事だったのかと云った顔つきで、再びプラットフォームの人込みの中を一種異様な感情を味いながら抜けて行った。こんなに沢山の人達の中で、自分だけが山から自分と一しょに附いて来た何か異常なもので心を充たされているのだと云った考えから、真直を向いて歩きながら何か一人で悲痛な気持ちにさえなっていた。しかし、彼はいま自分の心を充たしているものが、実は死の一歩手前の存在としての生の不安であるというような深い事情には思い到らなかった。

 その日は、黒川圭介はどうしてもその儘大森の家へ帰って行く気がしなかった。彼は新宿の或店で一人で食事をし、それから外の同じような店で茶をゆっくり喫《の》み、それからこんどは銀座へ出て、いつまでも夜の人込みの中をぶらついていた。そんな事は四十近くになって彼の知った初めての経験といってよかった。彼は自分の留守の間、母がどんなに不安になって自分の帰るのを待っているだろうかとときどき気になった。その度毎に、そう云う母の苦しんでいる姿を自分の内にもう少し保っていたいためかのように、わざと帰るのを引き延ばした。よくもあんな人気のない家で二人きりの暮しに我
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