彼女はもう昔の若い娘ではなかった。もう一人ではなかった。不本意にも、既に人の妻だった。その重苦しい日常の動作は、こんな孤独な暮しの中でも、彼女のする事なす事にはもはやその意味を失いながらも、いまだに執拗《しつよう》に空《くう》を描きつづけていた。彼女は今でも相変らず、誰かが自分と一しょにいるかのように、何んと云う事もなしに眉をひそめたり、笑をつくったりしていた。それから彼女の眼ざしはときどきひとりでに、何か気に入らないものを見咎《みとが》めでもするように、長いこと空《くう》を見つめたきりでいたりした。
彼女はそう云う自分自身の姿に気がつく度毎に、「もう少しの辛抱……もう少しの……」と何かわけも分からずに、唯、自分自身に云って聞かせていた。
七
五月になった。圭介の母からはときどき長い見舞の手紙が来たが、圭介自身は殆ど手紙と云うものをよこした事がなかった。彼女はそれをいかにも圭介らしいと思い、結局その方が彼女にも気儘《きまま》でよかった。彼女は気分が好くて起床しているような日でも、姑へ返事を書かなければならないときは、いつもわざわざ寝台にはいり、仰向けになって鉛筆で書きにく
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