き込んで、変な痰《たん》が出たと思ったら、それは真赤だった。
 菜穂子は慌てずに、それを自分で始末してから、いつものように起きて、誰にも云わないでいた。一日中、外には何んにも変った事が起らなかった。が、その晩、勤めから帰って来ていつものように何事もなさそうにしている夫を見ると、突然その夫を狼狽《ろうばい》させたくなって、二人きりになってからそっと朝の喀血《かっけつ》のことを打明けた。
「何、それ位なら大した事はないさ。」圭介は口先ではそう云いながら、見るも気の毒なほど顔色を変えていた。
 菜穂子はそれには故意と返事をせずに、ただ相手をじっと見つめ返していた。それがいま夫の云った言葉をいかにも空虚に響かせた。
 夫はそう云う菜穂子の眼ざしから顔を外《そ》らせた儘《まま》、もうそんな気休めのようなことは口に出さなかった。
 翌日、圭介は母には喀血のことは抜かして、菜穂子の病気を話し、今のうちに何処かへ転地させた方がよくはないかと相談を持ちかけた。菜穂子もそれには同意している事もつけ加えた。昔気質《むかしかたぎ》の母は、この頃何かと気ぶっせいな娵《よめ》を自分達から一時別居させて以前のように
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