通り抜けて行った。そして暫く立ち話をして行くのが二人の習慣になった。

   五

 そのうちにいつの間にか、明と早苗とは、毎日、午後の何時間かをその氷室を前にして一しょに過すようになった。
 明が娘の耳のすこし遠いことを知ったのは或風のある日だった。漸《や》っと芽ぐみ初めた林の中では、ときおり風がざわめき過ぎて木々の梢が揺れる度毎に、その先にある木の芽らしいものが銀色に光った。そんな時、娘は何を聞きつけるのか、明がはっと目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》るほど、神々しいような顔つきをする事があった。明はただ此の娘とこうやって何んの話らしい話もしないで逢ってさえいればよかった。其処には云いたい事を云い尽してしまうよりか、それ以上の物語をし合っているような気分があった。そしてそれ以外の欲求は何んにも持とうとはしない事くらい、美しい出会はあるまいと思っていた。それが相手にも何んとかして分からないものかなあと考えながら……
 早苗はと云えば、そんな明の心の中ははっきりとは分からなかったけれども、何か自分が余計な事を話したりし出すと、すぐ彼が機嫌を悪くしたように向うを向いて
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