てて母や新妻を相手にしながら、何時間も暮し向きの話などをしつづけていた。――菜穂子は結婚した当座は、そう云う張り合いのない位に静かな暮しにも格別不満らしいものを感じているような様子はなかった。
 唯、莱穂子の昔を知っている友達たちは、なぜ彼女が結婚の相手にそんな世間並の男を選んだのか、皆不思議がった。が、誰一人、それはその当時彼女を劫《おびや》かしていた不安な生から逃れるためだった事を知るものはなかった。――そして結婚してから一年近くと云うものは、菜穂子は自分が結婚を誤たなかったと信じていられた。他人の家庭は、その平和がいかによそよそしいものであろうとも、彼女にとっては恰好の避難所であった。少くとも当時の彼女にはそう思えた。が、その翌年の秋、菜穂子の結婚から深い心の傷手《いたで》を負うたように見えた彼女の母の、三村夫人が突然狭心症で亡くなってしまうと、急に菜穂子は自分の結婚生活がこれまでのような落《お》ち著《つ》きを失い出したのを感じた。静かに、今のままのよそよそしい生活に堪えていようという気力がなくなったのではなく、そのように自己を佯《いつわ》ってまで、それに堪えている理由が少しも無
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