どうしても菜穂子さんだという気がした。
 明は暫く目まぐるしい往来の中に立ち止った儘《まま》、もうかなり行き過ぎてしまった白い毛の外套《がいとう》を着た一人の女とその連れの夫らしい姿を見送っていた。そのうちに突然、その女の方でも、今すれちがったのは誰だか知った人のようだったと漸《や》っと気づいたかのように、彼の方をふり向いたようだった。夫も、それに釣られたように、こっちをちょいとふり向いた。その途端、通行人の一人が明に肩をぶつけ、空《うつ》けたように佇《たたず》んでいた背の高い彼を思わずよろめかした。
 明がそれから漸っと立ち直ったときは、もうさっきの二人は人込みの中に姿を消していた。
 何年ぶりかで見た菜穂子は、何か目に立って憔悴《しょうすい》していた。白い毛の外套に身を包んで、並んで歩いている彼女よりも背の低い夫には無頓著《むとんじゃく》そうに、考え事でもしているように、真直を見たままで足早に歩いていた。一度夫が何か彼女に話しかけたようだったが、それは彼女にちらりと蔑《さげす》むような頬笑みを浮べさせただけだった。――都築明は自分の方へ向って来る人込みの中に目ざとくそう云う二人の姿
前へ 次へ
全188ページ中66ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング