努力している最中だったので、一たび葬った自分の過去を再びふりかえって見るような事は私には堪え難いことだったからだ。……
 その次ぎに又O村の家に残して置いたものの整理に一人で来たとき、私ははじめてその母の日記を読んだ。この前のときからまだ半年とは立っていなかったが、私は母が気づかったように自分の前途の極めて困難であるのを漸《ようや》く身にしみて知り出していた折でもあった。私は半ばその母に対する一種のなつかしさ、半ば自分に対する悔恨から、その手帳をはじめて手にとったが、それを読みはじめるや否や、私はそこに描かれている当時の少女になったようになって、やはり母の一言一言に小さな反抗を感ぜずにはいられない自分を見出した。私は何んとしてもいまだに此の日記の母をうけいれるわけにはいかないのである。――お母様、この日記の中でのように、私がお母様から逃げまわっていたのはお母様自身からなのです。それはお母様のお心のうちにだけ在る私の悩める姿からなのです。私はそんな事でもって一度もそんなに苦しんだり悩んだりした事はございませんもの。……
 私はそう心のなかで、思わず母に呼びかけては、何遍もその手帳を中途で
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