にはおようさんは勝気な性分で、自分の背負っている運命なんぞは何んでもないと思っているような人に見える。恐らくは誰の目にもそうと見えるにちがいない。そんな風に誰の目にもはっきりそうと見えるその人の姿だけがこの世に実在しているのではないか。そうすると、私だってもそれは人生半ばにして夫に死別し、その後は多少寂しい生涯だったが、ともかくも二人の子供を立派に育て上げた堅実な寡婦、――それだけが私の本来の姿で、そのほかの姿、殊に此の手帳に描かれてあるような私の悲劇的な姿なんぞはほんの気まぐれな仮象にしか過ぎないのだ。此の手帳さえなければ、そんな私はこの地上から永久に姿を消してしまう。そうだ、こんなものは一思いに焼いてしまうほかはない。本当にいますぐにも焼いてしまおう。……
それが夕方の散歩から帰って来たときからの私の決心だったのだ。それだのに、私は爺やが其処を立ち去った後も、ちょっとその機会を失ってしまったかのように、その手帳をぼんやりと手にしたまま火の中へ投ぜずにいた。私には既に反省が来ていた。私達のような女は、そうしようと思った瞬間なら自分達にできそうもない事でもしでかし、それをした理由だっ
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