とき、ふと何処かから優しい歌の一節でも聞えて来たかのように暫くうっとりとして自分の頭上の樺の枝の網目を見上げていた彼の姿だけが残った。それがその森を出た途端に突然穉い頃死に別れた母の顔らしいものを形づくったときの何とも云えない心のときめきまで伴って。……
 明は此の数日、彼の世話を一切引き受けている若い主婦《おかみ》さんの手のふさがっている時など、娘の看病の合間に彼にも薬など進めに来てくれるおようの少し老けた顔などを見ながら、この四十過ぎの女にいままでとは全く違った親しさの湧くのを覚えた。おようがこうして傍に坐っていて呉れたりすると、彼の殆ど記憶にない母の優しい面ざしが、どうかした拍子にふいとあの枝の網目の向うにありありと浮いて来そうな気持ちになったりした。
「初枝さんはこの頃どうですか?」明は口数少く訊《き》いた。
「相変らず手ばかり焼けて困ります。」おようは寂しそうに笑いながら答えた。
「なにしろ、もう足掛け八年にもなりますんでね。此の前東京へ連れて参りましたときなんぞでも、本当にこんな身体でよくこれまで保って来たと皆さんに不思議がられましたけれど、失っ張、此の土地の気候が好いので
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