うになかなか家へは帰してくれそうにもないのです。ほんとうにお母様のみならず、圭介様にもさぞ……」彼女はこう書き出して、それから暫く鉛筆の端で自分の窶《やつ》れた頬を撫でながら、彼女の夫の打ち沈んだ様子を自分の前にさまざまに思い描いた。いつもそんな眼つきで彼女が見つめるとすぐ彼がそれから顔を外《そ》らせてしまう、あの見据えるような眼ざしを、つい今も知《し》らず識《し》らずにそれ等の夫の姿へ注ぎながら……
「そんな眼つきでおれを見ないでくれないか。」そう彼がとうとう堪《たま》らなくなったように彼女に向って云った、あの豪雨にとじこめられた日の不安そうだった彼の様子が、急に彼の他のさまざまな姿に立ち代って、彼女の心の全部を占め出した。彼女はそのうちにひとりでに目をつぶり、その嵐の中でのように、少し無気味な思い出し笑いのようなものを何んとはなしに浮べていた。
来る日も来る日も、雪曇りの曇った日が続いていた。ときどき何処かの山からちらちらとそれらしい白いものが風に吹き飛ばされて来たりすると、いよいよ雪だなと患者達の云い合っているのが聞えたが、それはそれきりになって、依然として空は曇ったままでい
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