それ以上云い出さなかった。
 そのときそう云われた事が、圭介にはその夜じゅう何か胸に閊《つか》えているような気もちだった。彼はその夜は殆どまんじりともしないで妻のことを考え通していた。彼には、菜穂子のいまいる山の療養所がなんだか世の果てのようなところのように思えていた。自然の慰籍《いしゃ》と云うものを全然理解すべくもなかった彼には、その療養所を四方から取囲んでいるすべての山も森も高原も単に菜穂子の孤独を深め、それを世間から遮蔽《しゃへい》している障礙《しょうがい》のような気がしたばかりだった。そんな自然の牢《ひとや》にも近いものの中に、菜穂子は何か詮《あきら》め切ったように、ただ一人で空《くう》を見つめた儘、死の徐《しず》かに近づいて来るのを待っている。――
「何が安心でいい。」圭介は一人で寝た儘、暗がりの中で急に誰に対してともつかない怒りのようなものを湧き上がらせていた。
 圭介は余っ程母に云って菜穂子を東京へ連れ戻そうかと何遍決心しかけたか分からなかった。が、菜穂子がいなくなってから何かほっとして機嫌好さそうにしている母が、菜穂子の病状を楯《たて》にして、例の剛情さで何かと反対をと
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