慢して居られたものだと思いさえした。彼はその間も絶えず自分につきまとうて来る菜穂子の眼ざしを少しもうるさがらずにいた。しかし、ときどき彼の脳裡《のうり》を掠《かす》める、生と死との絨毯《じゅうたん》はその度毎に少しずつぼやけて来はじめた。彼はだんだん自分の存在が自分と後になり先になりして歩いている外の人達のと余り変らなくなって来たような気がしだした。彼はそれが前日来の疲労から来ている事に漸《や》っと気がついた。彼は何物かに自分が引《ひ》き摺《ず》られて行くのをもうどうにもしようがないような心もちで、遂に大森の家に向って、はじめて自分の帰ろうとしているのが母の許《もと》だと云う事を妙に意識しながら、十二時近く帰って行った。
十三
おようがO村から娘の初枝の病気を東京の医者に治療して貰うために上京して来ている。――そんな事を聞いて、七月から又前とは少しも変らない沈鬱《ちんうつ》そうな様子で建築事務所に通っていた都築明が、築地のその病院へ見舞に行ったのは、九月も末近い或日だった。
「どんな具合です?」明は寝台の上の初枝の方をなるべく見ないように気を配りながら、おようの方へばかり顔
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