気だわ。……いつだつてそうなんですもの……」
「そうなのかい。……でも、こんな晩はこんな所に一人でなんぞ居るのは嫌だろうな。……」圭介はそういいかけて、くるりと彼女の方へ背を向けた。それは次の言葉を思い切って云うためだった。「……お前は家へ帰りたいとは思わないかい?」
 暗がりの中で菜穂子は思わず身を竦《すく》めた。「身体がすっかり好くなってからでなければ、そんな事は考えないことにしていてよ。」そう云ったぎり、彼女は寝返りを打って黙り込んでしまった。
 圭介もその先はもう何んにも云わなかった。二人を四方から取り囲んだ闇は、それから暫くの間は、木々をざわめかす雨の音だけに充たされていた。

   十二

 翌日、菜穂子は、風のために其処へたたきつけられた木の葉が一枚、窓硝子《まどガラス》の真ん中にぴったりとくっついた儘《まま》になっているのを不思議そうに見守っていた。そのうちに何か思い出し笑いのようなものをひとりでに浮べている自分自身に気がついて、彼女は思わずはっとした。
「後生だから、お前、そんな眼つきでおれを見る事だけはやめて貰えないかな。」帰りぎわに圭介は相変らず彼女から眼を外らせ
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