息子と二人きりになれる気楽さを圭介の前では顔色にまで現わしながら、しかし世間の手前病気になった娵を一人で転地させる事にはなかなか同意しないでいた。漸っと菜穂子の診て貰っている医者が、母を納得させた。転地先は、その医者も勧めるし、当人も希望するので、信州の八ヶ岳の麓《ふもと》にある或高原療養所が選ばれた。
或薄曇った朝、菜穂子は夫と母に附添われて、中央線の汽車に乗り、その療養所に向った。
午後、その山麓《さんろく》の療養所に著《つ》いて、菜穂子が患者の一人として或病棟の二階の一室に収容されるのを見届けると、日の暮れる前に、圭介と母は急いで帰って行った。菜穂子は、療養所にいる間絶えず何かを怖れるように背中を丸くしていた母とその母のいるところでは自分にろくろく口も利けないほど気の小さな夫とを送り出しながら、何かその母がわざわざ夫と一しょに自分に附添って来てくれた事を素直には受取れないように感じていた。それほどまで自分の事を気づかって呉れると云うよりか、圭介をこんな病人の自分と二人きりにさせて置いて彼の心を自分から離れがたいものにさせてしまう事を何よりも怖れているがためのようだった。菜穂子はその一方、そう云う事まで猜疑《さいぎ》せずにはいられなくなっている自分を、今こうしてこんな山の療養所に一人きりでいなければならなくなった自分よりも、一層寂しいような気持で眺めていた。
此処こそは確かに自分には持って来いの避難所だ、と菜穂子は最初の日々、一人で夕飯をすませ、物静かにその日を終えようとしながら窓から山や森を眺めて、そう考えた。露台に出て見ても、近くの村々の物音らしいものが何処か遠くからのように聞えて来るばかりだった。ときどき風が木々の香りを翻《あお》りながら、彼女のところまでさっと吹いて来た。それが云わば此処で許される唯一の生のにおいだった。
彼女は自分の意外な廻り合わせについて反省するために、どんなにかこう云う一人になりたかったろう。何処から来ているのか自分自身にも分らない不思議な絶望に自分の心を任せ切って気のすむまでじっとしていられるような場所を求めるための、昨日までの何んという渇望、――それが今すべてかなえられようとしている。彼女はもう今は何もかも気ままにして、無理に聞いたり、笑ったりせずともいいのだ。彼女は自分の顔を装ったり、自分の眼つきを気にしたりする心配がもうないのだ。
ああ、このような孤独のただ中での彼女のふしぎな蘇生《そせい》。――彼女はこう云う種類の孤独であるならばそれをどんなに好きだったか。彼女が云い知れぬ孤独感に心をしめつけられるような気のしていたのは、一家団欒《いっかだんらん》のもなか、母や夫たちの傍《かたわら》であった。いま、山の療養所に、こうして一人きりでいなければならない彼女は、此処ではじめて生の愉《たの》しさに近いものを味っていた。生の愉しさ? それは単に病気そのもののけだるさ、そのために生じるすべての瑣事《さじ》に対する無関心のさせる業だろうか。或は抑制せられた生に抗して病気の勝手に生み出す一種の幻覚に過ぎないのだろうか。
一日は他の日のように徐《しず》かに過ぎて行った。
そういう孤独な、屈托《くったく》のない日々の中で、菜穂子が奇蹟のように精神的にも肉体的にもよみ返って来だしたのは事実だった。しかし一方、彼女はよみ返ればよみ返るほど、漸《ようや》くこうして取戻し出した自分自身が、あれほどそれに対して彼女の郷愁を催していた以前の自分とは何処か違ったものになっているのを認めない訣《わけ》には行かなかった。彼女はもう昔の若い娘ではなかった。もう一人ではなかった。不本意にも、既に人の妻だった。その重苦しい日常の動作は、こんな孤独な暮しの中でも、彼女のする事なす事にはもはやその意味を失いながらも、いまだに執拗《しつよう》に空《くう》を描きつづけていた。彼女は今でも相変らず、誰かが自分と一しょにいるかのように、何んと云う事もなしに眉をひそめたり、笑をつくったりしていた。それから彼女の眼ざしはときどきひとりでに、何か気に入らないものを見咎《みとが》めでもするように、長いこと空《くう》を見つめたきりでいたりした。
彼女はそう云う自分自身の姿に気がつく度毎に、「もう少しの辛抱……もう少しの……」と何かわけも分からずに、唯、自分自身に云って聞かせていた。
七
五月になった。圭介の母からはときどき長い見舞の手紙が来たが、圭介自身は殆ど手紙と云うものをよこした事がなかった。彼女はそれをいかにも圭介らしいと思い、結局その方が彼女にも気儘《きまま》でよかった。彼女は気分が好くて起床しているような日でも、姑へ返事を書かなければならないときは、いつもわざわざ寝台にはいり、仰向けになって鉛筆で書きにく
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