手放そうと思いながら、矢っ張最後まで読んでしまった。読《よ》み了《おわ》っても、それを読みはじめたときから私の胸を一ぱいにさせていた憤懣《ふんまん》に近いものはなかなか消え去るようには見えなかった。
 しかし気がついてみると、私はこの日記を手にしたまま、いつか知《し》らず識《し》らずのうちに、一昨年の秋の或る朝、母がそこに腰かけて私を待ちながら最初の発作に襲われた、大きな楡の木の下に来ていた。いまはまだ春先きで、その楡の木はすっかり葉を失っていた。ただそのときの丸木の腰かけだけが半ば毀《こわ》れながら元の場所に残っていた。
 私がその半ば毀れた母の腰かけを認めた瞬間であった。この日記読了後の一種説明しがたい母への同化、それ故にこそ又同時にそれに対する殆ど嫌悪にさえ近いものが、突然私の手にしていた日記をその儘その楡の木の下に埋めることを私に思い立たせた。……
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  菜穂子

   一

「やっぱり菜穂子さんだ。」思わず都築明は立ち止りながら、ふり返った。
 すれちがうまでは菜穂子さんのようでもあり、そうでないようにも思えたりして、彼は考えていたが、すれちがったとき急にもうどうしても菜穂子さんだという気がした。
 明は暫く目まぐるしい往来の中に立ち止った儘《まま》、もうかなり行き過ぎてしまった白い毛の外套《がいとう》を着た一人の女とその連れの夫らしい姿を見送っていた。そのうちに突然、その女の方でも、今すれちがったのは誰だか知った人のようだったと漸《や》っと気づいたかのように、彼の方をふり向いたようだった。夫も、それに釣られたように、こっちをちょいとふり向いた。その途端、通行人の一人が明に肩をぶつけ、空《うつ》けたように佇《たたず》んでいた背の高い彼を思わずよろめかした。
 明がそれから漸っと立ち直ったときは、もうさっきの二人は人込みの中に姿を消していた。
 何年ぶりかで見た菜穂子は、何か目に立って憔悴《しょうすい》していた。白い毛の外套に身を包んで、並んで歩いている彼女よりも背の低い夫には無頓著《むとんじゃく》そうに、考え事でもしているように、真直を見たままで足早に歩いていた。一度夫が何か彼女に話しかけたようだったが、それは彼女にちらりと蔑《さげす》むような頬笑みを浮べさせただけだった。――都築明は自分の方へ向って来る人込みの中に目ざとくそう云う二人の姿を見かけ、菜穂子さんを見るような人だがと思い出すと、俄《にわ》かに胸の動悸《どうき》が高まった。彼がその白い外套の女から目を離さずに歩いて行くと、向うでも一瞬彼の方を訝《いぶか》しそうに見つめ出したようだった。しかし、何となくこちらを見ていながら、まだ何にも気づかないでいる間のような、空虚な眼ざしだった。それでも明はその宙に浮いた眼ざしを支え切れないように、思わずそれから目を外《そ》らせた。そして彼がちょいと何でもない方を見ている暇に、彼女はとうとう目の前の彼にそれとは気づかずに、夫と一しょにすれちがって行ってしまったのだった……。
 明はそれからその二人とは反対の方向へ、なぜ自分だけがそっちへ向って歩いて行かなければならないのか急に分からなくなりでもしたかのように、全然気がすすまぬように歩いて行った。こうして人込みの中を歩いているのが、突然何んの意味も無くなってしまったかのようだった。毎晩、彼の勤めている建築事務所から真直に荻窪の下宿へ帰らずに、何時間もこう云う銀座の人込みの中で何と云う事もなしに過していたのが、今までは兎も角も一つの目的を持っていたのに、その目的がもう永久に彼から失われてしまったとでも云うかのようだった。
 今いる町のなかは、三月なかばの、冷え冷えと曇り立った暮方だった。
「なんだが菜穂子さんはあんまり為合《しあわ》せそうにも見えなかったな」と明は考え続けながら、有楽町駅の方へ足を向け出した。「だが、そんな事を勝手に考えたりするおれの方が余っ程どうかしている。まるで人の不為合せになった方が自分の気に入るみたいじゃないか……。」

   二

 都築明は、去年の春私立大学の建築科を卒業してから、或建築事務所に勤め出していた。彼は毎日荻窪の下宿から銀座の或ビルディングの五階にあるその建築事務所へ通って来ては、几帳面《きちょうめん》に病院や公会堂なぞの設計に向っていた。この一年間と云うもの、時にはそんな設計の為事《しごと》に全身を奪われることはあっても、しかし彼は心からそれを楽しいと思ったことは一度もなかった。
「お前はこんなところで何をしている?」ときどき何物かの声が彼に囁《ささや》いた。
 この間、彼がもう二度と胸に思い描くまいと心に誓っていた菜穂子にはからずも町なかで出逢ったときの事は、誰にとて話す相手もなく、ただ彼の胸のうちに深い感動として残さ
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