も分からないように二人でこっそり暮らそう。……」そんな事を云い出しそうな気がしたからであった。
 が、夫は何か或考えを払いのけでもするように頭を振りながら、何も云わずに、それまで手にしていた時計を徐《しず》かに衣嚢《かくし》にしまっただけだった。もう自分は帰らなければならないと云う事をそれで知らせるように。……

 菜穂子は、圭介が雪を掻き分けながら帰えるのをうす暗い玄関に見送った後、その儘|硝子戸《ガラスど》に顔を押しあてるようにして、何か化け物じみて見える数本の真白な棕梠《しゅろ》ごしに、ぼんやりと暮方の雪景色を眺めていた。雪はまだなかなか止みそうもなかった。彼女は暫くの間、今の自分の心の内と関係があるのだかないのだかも分からないような事をそれからそれへと思い出しては、又、それを傍からすぐ忘れてしまっているような、空虚な心もちを守っていた。それは何もかもが片側だけに雪を吹きつけられている山の駅の光景だったり、今しがたまで見ていたのにもうどうしてもそれを何時見たのだか思い出せない何処かの教会の尖塔《せんとう》だったり、明の何かをじっと堪えているような様子だったり、喚きながら雪投げをしている沢山の子供達だったりした。……
 そのとき漸っと彼女が背を向けていた広間の電灯が点《とも》ったらしかった。そのために彼女が顔を押しつけていた硝子が光を反射し、外の景色が急に見にくくなった。彼女はそれを機会に、今夜この小さなホテル――さっきから外人が二三人ちらっと姿を見せたきりだった――に一人きりで過さなければならないのだと云う事をはじめて考え出した。しかしこの事は彼女に佗《わ》びしいとか、悔《くや》しいとか、そう云うような感情を生じさせる暇《いとま》は殆どなかった。一つの想念が急に彼女の心に拡がり出していたからだった。それは自分がきょうのように何物かに魅せられたように夢中になって何か手あたりばったりの事をしつづけているうちに、一つ所にじっとしたきりでは到底考え及ばないような幾つかの人生の断面が自分の前に突然現われたり消えたりしながら、何か自分に新しい人生の道をそれとなく指し示していて呉れるように思われて来た事だった。
 彼女はそんな考えに耽《ふけ》りながら、もうぼおっと白いもののほかは何も見えなくなり出した戸外の景色を、まだ何んという事もなしに、眺め続けていた。そうやって冷い硝子に自分の顔を押しつけるようにしているのが、彼女にはだんだん気持ちよく感ぜられて来ていた。広間のなかは彼女の顔がほてり出す程、暖かだったのだ。彼女はこう云う気持ちよさにも、自分が明日帰って行かなければならない山の療養所の吸いつくような寒さを思わずにはいられなかった。……
 給仕が食事の用意の出来たことを知らせに来た。彼女は黙って頷《うなず》き、急に空腹を感じ出しながら、その儘自分の部屋へは帰らずに、さっきから静かに皿の音のし出している奥の食堂の方へ向って歩き出した。



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第2巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:「菜穂子」は「楡の家」(第1部・第2部)と「菜穂子」の2篇から成る。
   「楡の家」第1部:「物語の女」山本書店(「物語の女」の表題で。)
   1934(昭和9)年11月
   「楡の家」第2部:「文学界」(「目覚め」の表題で。)
   1941(昭和16)年9月号
   「菜穂子」:「中央公論」
   1941(昭和16)年3月号
初収単行本:「菜穂子」創元社
   1941(昭和16)年11月18日
※創元社版の「菜穂子」には、山本書店版「物語の女」が「楡の家」第1部として、「文学界」掲載の「目覚め」が「楡の家」第2部として、「中央公論」掲載の「菜穂子」がそのままの表題で収録された。
※底本の親本の筑摩全集版は創元社版を底本とする。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第2巻」(1977(昭和52)年8月30日、筑摩書房)解題による。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年1月21日作成
2005年10月22日修正
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