たのだった。
 菜穂子は自分のそう云う一種の瞞著《まんちゃく》を、それから二三日してから、はじめて自分に白状した。何故あんなに相手にすげなくして、旅の途中にわざわざ立寄って呉れたものを心からの言葉ひとつ掛けてやれずに帰らせてしまったのか、とその日の自分がいかにも大人気《おとなげ》ないように思われたりした。――しかし、そう思う今でさえ、彼女の内には、若《も》し自分がそのとき素直に明に頭を下げてしまって居たら、ひょっとしてもう一度彼と出逢うような事のあった場合、そのとき自分はどんなに惨《みじ》めな思いをしなければならないだろうと考えて、一方では思わず何かほっとしているような気持ちもないわけではなかった。……
 菜穂子が今の孤独な自分がいかに惨めであるかを切実な問題として考えるようになったのは、本当に此の時からだと云ってよかった。彼女は、丁度病人が自分の衰弱を調べるためにその痩せさらばえた頬へ最初はおずおずと手をやってそれを優しく撫で出すように、自分の惨めさを徐々に自分の考えに浮べはじめた。彼女には、まだしも愉《たの》しかった少女時代を除いては、その後彼女の母なんぞのように、一つの思出だけで後半生を充たすに足りるような精神上の出来事にも出逢わず、又、将来だっていまの儘では何等期待するほどのことは起りそうもないように思われる。現在をいえば、為合せなんぞと云うものからは遥かに遠く、とは云え此の世の誰よりも不為合せだと云うほどのことでもない。只、こんな孤独の奥で、一種の心の落ち著きに近いものは得ているものの、それとてこうして陰惨な冬の日々にも堪えていなければならない山の生活の無聊《ぶりょう》に比べればどんなに報《むく》いの少ないものか。殊に明があんなに前途に不安そうな様子をしながら、しかもなお自分の生のぎりぎりのところまで行って自分の夢の限界を突き止めて来ようとしているような真摯さの前では、どんなに自分のいまの生活はごまかしの多いものであるか。それでも自分はまだ此の先の日々に何か恃《たの》むものがあるように自分を説き伏せて此の儘こうした無為の日々を過していなければならないのか。それとも本当に其処に何か自分をよみ返らして呉れるようなものがあるのであろうか。……
 菜穂子の考えはいつもそうやって自分の惨めさに突き当った儘、そこで空しい逡巡《しゅんじゅん》を重ねている事が多かった。

   十九

 それまで菜穂子は、圭介の母からいつも分厚い手紙を貰っても、枕もとに打《う》ち棄《す》てて置いた儘すぐそれを開こうとはせず、又、それを一度も嫌悪の情なしには開いた事はなかった。そして彼女はその次ぎには、それ以上の嫌悪に打ち勝って、心にもない言葉を一つ一つ工夫しながら、それに対する返事を認《したた》めなければならなかった。
 菜穂子はしかし冬に近づく時分から、その姑の手紙の中に何かいままでの空しさとは違ったものを徐々に感じ出してはいた。彼女はその手紙の文句に一々これまでのように眉をひそめたりしないでもそれを読み過せるようになった。彼女は相変らず姑の手紙が来る毎に面倒そうにそれをすぐ開きもせず、長いこと枕もとに置いたきりにはしていたが、一度それを手にとるといつまでもそれを手放さないでいた。何故それが今までのような不愉快なものでなくなって来たか、彼女は別にそれを気にとめて考えて見ようともしなかったが、一手紙毎に、姑のたどたどしい筆つきを通して、ますます其処に描かれている圭介の此の頃のいかにも打ち沈んだような様子が彼女にも生き生きと感ぜられるようになって来た事を、菜穂子は自分に否もうとはしなかった。
 明が訪れてから数日後の、或雪曇った夕方、菜穂子はいつも同じ灰色の封筒にはいった姑の手紙を受け取ると、矢っ張いつものように面倒そうに手にとらずにいたが、暫くしてからひょっとしたら何か変った事でも起きたのではないかしらと思い出し、そう思うとこんどは急いで封を切った。が、それには此の前の手紙と殆ど変らない事しか書いてはなくて、彼女の一瞬前に空想したように圭介も突然危篤にはなっていなかったので、彼女は何んだか失望したように見えた。それでもその手紙の走り書きのところが読みにくかったし、そんなところは急いで飛ばし飛ばし読んでいたので、もう一遍最初から丁寧に読み返して見た。それから彼女は暫く考え深そうに目をつぶっていたが、気がついて夕方の検温をし、相変らず七度二分なのを確かめると、寝台に横になった儘《まま》、紙と鉛筆をとって、いかにも書く事がなくて困ったような手つきで姑への返事を書き出した。――「きのうきょうのこちらのお寒いことと云ったらとても話になりません。しかし、療養所のお医者様たちはこちらで冬を辛抱すればすっかり元通りの身体にしてやるからと云って、お母様のおっしゃるよ
前へ 次へ
全47ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング