知ってはいたが、それにも何んにも口出しをしなかった。そして菜穂子のいつも鉛筆でぞんざいに書いた手紙らしいのが来ていても、それを披《ひら》いて妻の文句を見ようともしなかった。唯、どうかするとちょいと気になるように、その上へいつまでも目を注いでいる事があった。そんな時には、彼は自分の妻が寝台の上に仰向いた儘、鉛筆でその痩せた頬を撫でながら、心にもない文句を考え考えその手紙を書いている、いかにも懶《ものう》そうな様子をぼんやりと思い浮べているのだった。
 圭介はそう云う自分の煩悶《はんもん》を誰にも打ち明けずにいたが、或日、彼は或先輩の送別会のあった会場を一人の気のおけない同僚と一しょに出ながら、不意と此の男なら何かと頼もしそうな気がして妻のことを打ち明けた。
「それは気の毒だな。」一杯機嫌の相手はいかにも彼に同情するように耳を傾けていたが、それから急に何を思ったのか、吐き出すように云った。「だが、そう云う女房は反って安心でいいだろう」
 圭介には最初相手の云った言葉の意味が分からなかった。が、彼はその同僚の細君が身持ちの悪いという以前からの噂を突然思い出した。圭介はもうその同僚に妻のことをそれ以上云い出さなかった。
 そのときそう云われた事が、圭介にはその夜じゅう何か胸に閊《つか》えているような気もちだった。彼はその夜は殆どまんじりともしないで妻のことを考え通していた。彼には、菜穂子のいまいる山の療養所がなんだか世の果てのようなところのように思えていた。自然の慰籍《いしゃ》と云うものを全然理解すべくもなかった彼には、その療養所を四方から取囲んでいるすべての山も森も高原も単に菜穂子の孤独を深め、それを世間から遮蔽《しゃへい》している障礙《しょうがい》のような気がしたばかりだった。そんな自然の牢《ひとや》にも近いものの中に、菜穂子は何か詮《あきら》め切ったように、ただ一人で空《くう》を見つめた儘、死の徐《しず》かに近づいて来るのを待っている。――
「何が安心でいい。」圭介は一人で寝た儘、暗がりの中で急に誰に対してともつかない怒りのようなものを湧き上がらせていた。
 圭介は余っ程母に云って菜穂子を東京へ連れ戻そうかと何遍決心しかけたか分からなかった。が、菜穂子がいなくなってから何かほっとして機嫌好さそうにしている母が、菜穂子の病状を楯《たて》にして、例の剛情さで何かと反対をとなえるだろう事を思うと、もううんざりして何んにも云い出す気がなくなるのだった。――それに菜穂子を連れ戻して来たって、母と妻とのこれまでの折合《おりあい》考えると、彼女の為合せのために自分が何をしてやれるか、圭介自身にも疑問だった。
 そして結局は、すべての事が今までの儘にされていたのだった。

 或|野分立《のわきだ》った日、圭介は荻窪の知人の葬式に出向いた帰《かえ》り途《みち》、駅で電車を待ちながら、夕日のあたったプラットフォームを一人で行ったり来たりしていた。そのとき突然、中央線の長い列車が一陣の風と共にプラットフォームに散らばっていた無数の落葉を舞い立たせながら、圭介の前を疾走して行った。圭介はそれが松本行の列車であることに漸《や》っと気がついた。彼はその長い列車が通り過ぎてしまった跡も、いつまでも舞い立っている落葉の中に、何か痛いような眼つきをしてその列車の去った方向を見送っていた。それが数時間の後には、信州へはいり、菜穂子のいる療養所の近くを今と同じような速力で通過することを思い描きながら。……
 生れつき意中の人の幻影をあてもなく追いながら町の中を一人でぶらついたりする事の出来なかった圭介は、思いがけずそのとき妻の存在が一瞬まざまざと全身で感ぜられたものだから、それからは屡々《しばしば》会社の帰りの早いときなどには東京駅からわざわざ荻窪の駅まで省線電車で行き、信州に向う夕方の列車の通過するまでじっとプラットフォームに待っていた。いつもその夕方の列車は、彼の足もとから無数の落葉を舞い立たせながら、一瞬にして通過し去った。その間、彼が食い入るような眼つきで一台一台見送っていたそれらの客車と共に、彼の内から一日じゅう何か彼を息づまらせていたものが俄《にわ》かに引き離され、何処へともなく運び去られるのを、彼は切ないほどはっきりと感ずるのだった。

   十五

 山では秋らしく澄んだ日が続いていた。療養所のまわりには、どっちへ行っても日あたりの好い斜面がある。菜穂子は毎日日課の一つとして、いつも一人で気持ちよく其処此処を歩きながら、野茨《のいばら》の真赤な実なぞに目を愉《たの》しませていた。温かな午後には、牧場の方までその散歩を延ばして、柵《さく》を潜り抜け、芝草の上をゆっくりと踏みながら、真ん中に一本ぽつんと立った例の半分だけ朽ちた古い木にまだ黄ばんだ葉がいく
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