の村へ夏休みを送りに来ていた時分、そのおようがその年の春から彼女の家に勉強に来て冬になってもまだ帰ろうとしなかった或法科の学生と或噂が立ち、それが別荘の人達の話題にまで上った事のあるのを明はふと思い出したりして、そう云う迷いの一ときもおようにはあったと云う事が一層彼のうちのおようの絵姿を完全にさせるように思えたりした。……
早苗は、彼女の傍で明が空《うつ》けたような眼つきをしてそんな事なんぞを考え出している間、手近い草を手ぐりよせては、自分の足首を撫でたりしていた。
二人はそうやって二三時間逢った後、夕方、別々に村へ帰って行くのが常だった。そんな帰りがけに明はよく途中の桑畑の中で、一人の巡査が自転車に乗って来るのに出逢った。それは此の近傍の村々を巡回している、人気のいい、若い巡査だった。明が通り過ぎる時、いつも軽い会釈をして行った。明はこの人の好さそうな若い巡査がいま自分の逢って来たばかりの娘への熱心な求婚者である事をいつしか知るようになった。彼はそれからは一層その若い巡査に特殊な好意らしいものを感じ出していた。
六
或朝、菜穂子は床から起きようとした時、急にはげしく咳き込んで、変な痰《たん》が出たと思ったら、それは真赤だった。
菜穂子は慌てずに、それを自分で始末してから、いつものように起きて、誰にも云わないでいた。一日中、外には何んにも変った事が起らなかった。が、その晩、勤めから帰って来ていつものように何事もなさそうにしている夫を見ると、突然その夫を狼狽《ろうばい》させたくなって、二人きりになってからそっと朝の喀血《かっけつ》のことを打明けた。
「何、それ位なら大した事はないさ。」圭介は口先ではそう云いながら、見るも気の毒なほど顔色を変えていた。
菜穂子はそれには故意と返事をせずに、ただ相手をじっと見つめ返していた。それがいま夫の云った言葉をいかにも空虚に響かせた。
夫はそう云う菜穂子の眼ざしから顔を外《そ》らせた儘《まま》、もうそんな気休めのようなことは口に出さなかった。
翌日、圭介は母には喀血のことは抜かして、菜穂子の病気を話し、今のうちに何処かへ転地させた方がよくはないかと相談を持ちかけた。菜穂子もそれには同意している事もつけ加えた。昔気質《むかしかたぎ》の母は、この頃何かと気ぶっせいな娵《よめ》を自分達から一時別居させて以前のように
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