くなってしまったように思えたのだ。
菜穂子は、それでも最初のうちは、何かを漸《や》っと堪えるような様子をしながらも、いままでどおり何んの事もなさそうに暮らしていた。夫の圭介は、相変らず、晩飯後も茶の間を離れず、この頃は大抵母とばかり暮し向きの話などをしながら、何時間も過していた。そしていつも話の圏外に置きざりにされている菜穂子には殆ど無頓著《むとんじゃく》そうに見えたが、圭介の母は女だけに、そう云う菜穂子の落ち著かない様子に何時までも気づかないでいるような事はなかった。彼女の娵《よめ》がいまのままの生活に何か不満そうにし出している事が、(彼女にはなぜか分からなかったが)しまいには自分たちの一家の空気をも重苦しいものにさせかねない事を何よりも怖れ出していた。
この頃は夜なかなどに、菜穂子がいつまでも眠れないでつい咳などをしたりすると、隣りの部屋に寝ている圭介の母はすぐ目を醒ました。そうすると彼女はもう眠れなくなるらしかった。しかし、圭介や他のものの物音で目を醒ましたようなときは、必ずすぐまた眠ってしまうらしかった。そんな事が又、菜穂子には何もかも分かって、一々心に応えるのだった。
菜穂子は、そう云う事毎に、他家へ身を寄せていて、自分のしたい事は何ひとつ出来ずにいる者にありがちな胸を刺されるような気持を絶えず経験しなければならなかった。――それが結婚する前から彼女の内に潜伏していたらしい病気をだんだん亢《こう》じさせて行った。菜穂子は目に見えて痩《や》せ出した。そして同時に、彼女の裡《うち》にいつか涌《わ》いて来た結婚前の既に失われた自分自身に対する一種の郷愁のようなものは反対にいよいよ募るばかりだった。しかし、彼女はまだ自分でもそれに気づかぬように出来るだけ堪えに堪えて行こうと決心しているらしく見えた。
三月の或暮方、菜穂子は用事のため夫と一しょに銀座に出たとき、ふと雑沓《ざっとう》の中で、幼馴染の都築明らしい、何かこう打ち沈んだ、その癖相変らず人懐しそうな、背の高い姿を見かけた。向うでははじめから気がついていたようだが、こちらはそれが明である事を漸っと思い出したのは、もうすれちがって大ぶ立ってからの事だった。ふり返って見たときは、もう明の背の高い姿は人波の中に消えていた。
それは菜穂子にとっては、何でもない邂逅《かいこう》のように見えた。しかし、それから日
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