に人生に疲弊したようなこの孤独な作家を急に若返らせでもさせたような、異様な亢奮《こうふん》を与えずにはおかなかったように見えた。……
 翌年の夏もまた、隣村のホテルに保養に来ていたこの孤独な作家は不意にO村へも訪ねて来たりした。その頃から、三村夫人が彼女のまわりに拡げ出していた一種の悲劇的な雰囲気は、何か理由がわからないなりにも明の好奇心を惹《ひ》いて、それを夫人の方へばかり向けさせていた間、彼はそれと同じ影響が菜穂子から今までの快活な少女を急に抜け出させてしまった事には少しも気がつかなかった。そして明が漸っとそう云う菜穂子の変化に気づいたときは、彼女は既に彼からは殆ど手の届かないようなところに行ってしまっていた。この勝気な少女は、その間じゅう、一人で誰にも打ち明けられぬ苦しみを苦しみ抜いて、その挙句もう元通りの少女ではなくなっていたのだった。
 その前後からして、彼の赫かしかった少年の日々は急に陰《かげ》り出していた。……
 或日、所長が事務所の戸を開けて入って来た。
「都築君。」
 と所長は明の傍にも近づいて来た。明の沈鬱《ちんうつ》な顔つきがその人を驚かせたらしかった。
「君は青い顔をしている。何処か悪いんじゃないか?」
「いいえ別に」と明は何だか気まりの悪そうな様子で答えた。前にはもっと入念に為事《しごと》をしていたではないか、どうしてこう熱意が無くなったのだ、と所長の眼が尋ねているように彼には見えた。
「無理をして身体を毀《こわ》してはつまらん」しかし所長は思いの外の事を云った。
「一月《ひとつき》でも二月《ふたつき》でも、休暇を上げるから田舎へ行って来てはどうだ?」
「実はそれよりも――」と明は少し云いにくそうに云いかけたが、急に彼独特の人懐そうな笑顔に紛《まぎ》らわせた。「――が、田舎へ行かれるのはいいなあ。」
 所長もそれに釣り込まれたような笑顔を見せた。
「今の為事が為上がり次第行きたまえ」
「ええ、大抵そうさせて貰います。実はもうそんな事は自分には許されないのかと思っていたのです……。」
 明はそう答えながら、さっき思い切って所長に此事務所をやめさせて下さいと云い出しかけて、それを途中で止めてしまった自分の事を考えた。今の為事をやめてしまって、さてその自分にすぐ新しい人生を踏み直す気力があるかどうか自分自身にも分かっていない事に気づくと、こんどは
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