立ってお立寄りしたのです」と彼は自分の掌で痩《や》せた頬を撫でながら云った。
「何処へいらっしゃるの?」彼女は相変らずいらいらした様子で訊《き》いた。
「別に何処って……」と明は自問自答するように口籠《くちごも》っていた。それから突然目を思い切り大きく見ひらいて、自分の云いたい事を云おうと思う前には、相手も何もないかのような語気で云った。「急に何処というあてもない冬の旅がしたくなったのです。」
菜穂子はそれを聞くと、急に一種のにが笑いに近いものを浮べた。それは少女の頃からの彼女の癖で、いつも相手の明なんぞのうちに少年特有な夢みるような態度や言葉が現われると、彼女はそう云う相手を好んでそれで揶揄《やゆ》したものだった。
菜穂子はいまも自分がそんな少女の頃に癖になっていたような表情をひとりでに浮べている事に気がつくと、いつの間にか自分のうちにも昔の自分がよみ返って来たような、妙に弾んだ気持ちを覚えた。が、それもほんの一瞬で、明が又さっきのように烈しく咳き込み出したので、彼女は思わず眉をひそめた。
「こんなに咳ばかりしていて此の人はまあ何んで無茶なんだろう、そんな為《し》なくとも好い旅に出て来るなんて……」菜穂子は他人事《ひとごと》ながらそんな事も思った。
それから彼女は再び元の冷やかな目つきになりながら云った。「お風邪でも引いていらっしゃるんじゃない? それなのに、こんな寒い日に旅行なんぞなすってよろしいの?」
「大丈夫です。」明は何か上の空で返事をするような調子で返事をした。「ちょっと喉をやられているだけですから。雪のなかへ行けば反って好くなりそうな気がするんです。」
そのとき彼は心の一方でこんな事を考えていた。――「おれは菜穂子さんに逢って見たいなんぞとはこれまでついぞ考えもしなかったのに、何故さっき汽車のなかで思い立つと、すぐその気になって、何年も逢わない菜穂子さんをこんなところに訪れるような真似が出来たんだろう。おれは菜穂子さんがいまどんな風にしているか、すっかり昔と変ってしまったか、それともまだ変らないでいるか、そんな事なぞちっとも知りたかあなかった。只、ほんの一瞬間、昔のようにお互に怒ったような眼つきで眼を見合わせて、それだけで帰るつもりだった。それだのに、此の人に逢っていると又昔のように、向うですげなくすればするほど、自分の痕《きず》を相手にぎゅう
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