を物陰で聞いていたきりだったので、この娘の眼がこんなに娘らしい赫《かがや》きを示そうとは思っても見なかった。――明は突然、この初枝が彼の恋人の早苗と幼馴染であったと云う話を思い浮べた。早苗はこの秋の初めに、彼とも顔馴染の、村で人気者の若い巡査のところへ嫁いだ筈だった。
 それから明は殆ど二三日|隔《お》き位に、事務所の帰りなどに彼女達を見舞って行くようになった。いつも秋らしい夕方の光が彼女達の病室へ一ぱい差し込んでいるような日が多かった。そんな穏かな日差しの中で、おようと初枝とがいかにも何気ない会話や動作をとりかわしているのを、明は傍で見たり聞いたりしているうちに、其処から突然O村の特有な匂のようなものが漂って来るような気がしたりした。彼はそれを貪《むさぼ》るように嗅《か》いだ。そんなとき、彼には自分が一人の村の娘に空しく求めていたものを図らずも此の母と娘の中に見出しかけているような気さえされるのだった。おようは明と早苗の事はうすうす気づいているらしかったが、ちっともそれを匂わせようとしない事も明には好ましかった。が、それだけ、ときどき此の年上の女の温かい胸に顔を埋めて、思う存分村の匂をかぎながら、何も云わず云われずに慰められたいような気持ちのする事もないではなかった。
「なんだか夜中などに目をさますと、空気が湿々《じめじめ》していて、心もちが悪くなります。」山の乾燥した空気に馴れ切ったおようは、この滞京中、そんな愚痴を云っても分かって貰えるのは明にだけらしかった。おようは何処までも生粋の山国の女だった。O村で見ると、こんな山の中には珍らしい、容貌の整った、気性のきびしい女に見えるおようも、こう云う東京では、病院から一歩も出ないでいてさえ、何か周囲の事物としっくりしない、いかにも鄙《ひな》びた女に見えた。
 過去のおおい、その癖まだ娘のようなおもかげを何処かに残しているおようと、長患いのために年頃になってもまだ子供から抜け切れない一人娘の初枝と、――その二人は明にはいつの間にかどっちをどっち切り離しても考える事の出来ない存在となっていた。病院から帰る時、いつも玄関まで見送られる途中、彼ははっきりと自分の背中におようの来るのを感じながら、ふと自分が此の母子と運命を共にでもするようになったら、とそんな全然有り得なくもなさそうな人生の場面を胸のうちに描いたりした。

  
前へ 次へ
全94ページ中62ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング