つくと、その顔の向きを変えずに、鳥のように大きく見ひらいた眼だけを彼の方へそろそろと向け出した。
圭介は思わずぎょっとしながら、その扉の傍をいそいで通り過ぎようとすると、同時に内側からも誰かが近づいて来てその扉を締めた。その途端、何やらひょいと会釈されたようなので、気がついて見ると、それはもう白衣に着換えた、駅から一しょに来たさっきの若い女だった。
圭介は漸っと廊下で一人の看護婦を捉えて訊《き》くと、菜穂子のいる病棟はもう一つ先の病棟だった。教わったとおり、突き当りの階段を上がると、ああ此処だったなと前に妻の入院に附添って来たときの事を何かと思い出し、急に胸をときめかせながら菜穂子のいる三号室に近づいて行った。事によったら、菜穂子もすっかり衰弱して、さっきの若い喀血《かっけつ》患者《かんじゃ》のような無気味なほど大きな眼でこちらを最初誰だか分からないように見るのではないかと考えながら、そんな自身の考えに思わず身慄《みぶる》いをした。
圭介は先ず心を落ち著けて、ちょっと扉をたたいてから、それを徐《しず》かに明けて見ると、病人は寝台の上に向う向きになった儘《まま》でいた。病人は誰がはいって来たのだが知りたくもなさそうだった。
「まあ、あなたでしたの?」菜穂子は漸っとふり返ると、少し窶《やつ》れたせいか、一層大きくなったような眼で彼を見上げた。その眼は一瞬異様に赫《かがや》いた。
圭介はそれを見ると、何かほっとし、思わず胸が一ぱいになった。
「一度来ようとは思っていたんだがね。なかなか忙しくて来られなかった。」
夫がそう云《い》い訣《わけ》がましい事を云うのを聞くと、菜穂子の眼からは今まであった異様な赫きがすうと消えた。彼女は急に暗く陰った眼を夫から離すと、二重になった硝子窓《ガラスまど》の方へそれを向けた。風はその外側の硝子へときどき思い出したように大粒の雨をぶつけていた。
圭介はこんな吹き降りを冒してまで山へ来た自分を妻が別に何んとも思わないらしい事が少し不満だった。が、彼は目の前に彼女を見るまで自分の胸を圧《お》しつぶしていた例の不安を思い出すと、急に気を取り直して云った。
「どうだ。あれからずっと好いんだろう?」圭介はいつも妻に改ってものを云うときの癖で目を外《そ》らせながら云った。
「…………」菜穂子も、そんな夫の癖を知りながら、相手が自分を見ていよ
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