って歩いてゆく彼の方がよほど気が気でなかった。そのうち彼はこりゃ俺《おれ》の方がすこしあやしいぞと思い出した。……彼はどうかした機会に、血を見ると、それが自分のであろうと、他人のであろうと、すぐ脳貧血を起してしまう癖があった。そうして今も今、彼はドロシイの白い脛に薔薇色《ばらいろ》の血が滲み出ているのを見ているうちに、どうやらそいつを起したらしいのである。彼はホテルの玄関の次第に近づいてくるのを、うるさく顔にまつわりつく蜘蛛《くも》の巣のようなものを透して、やっとのことで見分けていた。……
「ブランディ! ブランディ!」
一人の西洋人がそう叫んでいるらしいのを彼はすぐ顔の近くに聞いた。それから彼は、自分がホテルの床板の上にあおむけに倒れながら、誰かに自分の足を宙に持ち上げられているらしいことに気がついた。それと同時に甘ったるいような香水のかおりを彼は臭《か》いだ。彼を介抱してくれているのは西洋人の夫婦らしかった。
「ブランディ!」
彼の足を持ち上げていてくれるその西洋人は、漸《ようや》く意識を回復しだした彼の上にかがみながら、ボオイの持ってきたらしい琥珀色《こはくいろ》のグラスを彼の唇《くちびる》に押しあてた。彼はそれを一息に飲み干した。
「…………?」
彼はその親切な西洋人たちにどんな言葉で感謝を示したらいいのか分らなかったので、ただにっこりと笑って見せた。
その時彼の額へ手をやっていたその細君らしい西洋婦人がひょいとうしろを振り向いたので、その方へやっと頭を持ち上げながら彼も見てみると、ホテルのポオチのところにドロシイとその妹は、丁度ホテルへ遊びにでも来ていたと見える彼女らの友達らしい五六人の少女たちに取りかこまれていた。そうして一種の遊戯かなんぞをしているように、ドロシイの説明を聞こうとしていくつもの金髪を一とところに集めているそれらの少女たちの姿は、まだすこし頭の痺《しび》れている彼には、あたかも葡萄《ぶどう》の房《ふさ》のようにゆらゆらと揺れながら見えた。……
……ここにこうして居ると、そういう数年前の光景の一つ一つが、妙に生き生きと彼の心のなかに蘇《よみがえ》ってくるのは、どういう訣《わけ》かしらと考える度毎に、彼はこの樹蔭《こかげ》に何かしら一種特別な空気のあることに気づかないではなかったけれど、つい面倒くさいので彼はそれをそのままにしておいた。だが、或る日のこと、いくらか気分のよかった彼はその原因を調べてやろうと思い立った。そこの樹蔭は奥へ行けば行くほど彼が名前も知らないような雑草が茂るがままに茂っていた。これはきっとこの雑草の中に何か特別な香《かお》りを発するものがあって、それが彼の記憶を刺戟《しげき》するのかも知れないぞと思った。そこで彼はこの雑草のなかを鼻孔をひろげながら出たらめに歩き廻ってみた。なるほど、何かが特に強く匂《にお》っている。――それを嗅いでいると、なんだか気持がすうすうしてくる。おや、おれはまた脳貧血をやりそうだぞ、と彼がちょっと錯覚を起しかかったくらい、その香りは彼の発作の直前の気持を思い出させる。こいつだな、と思って彼はその香りをたよりに、その香りの生じていそうなところをむき[#「むき」に傍点]になって捜したけれど、それが一面に茂っている雑草のどの辺であるのかすら一向に見分けがつかなかった。だが、その香りは何処かしらからますます鮮明に匂ってくる。彼はそこにぼんやり佇《たたず》んだまま、何となく自分が盲目になったような感じさえ持ち出した。……
だが、彼は遂《つい》にその香りの正体を捜しあてた。彼の足が偶然にもそれを踏んづけたのである。彼の足もとには、暗緑色の細かい葉をもった草が一かたまりになって密生していた。その一つを手折って見ると、その葉は縮緬《ちりめん》の皺《しわ》のようにちぢれていて、それが目にしみるほどの強烈な光りを放っていた。何かの匂いに似ていると思ったけれど、どうしてもそれが思い出せなかった。彼はそれを叔母のところへ持って行った。
「叔母さん、これ、何という草だか知っていません? これですよ、僕にドロシイのことを思い出させるのは……」彼は二三年前の発作のことを思い出しながら言った。
叔母はそれを手にとって見てちょっと嗅いでいた。
「なんだか薄荷《はっか》みたいな香りがするわね。薄荷草というのじゃないこと?」
「あ、そう、そう、こりぁ薄荷のにおいでしたね……」
彼が発作を起すときの何となく快よいような気持は、丁度このにおいを嗅いでいるときの気持にそっくりであることに彼はいま始めて気がついたのである。それは彼には一つのすばらしい発見のように思われた。
まだ八月の半ばを過ぎたばかりなのに、もう秋風らしいものが周囲の木の葉をさわさわ揺すぶっているのを耳にひやり
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