た。そうだ、あのおばさんだけがいまでは私の生父にゆかりのあるただ一人のかたなのだ。なんでもほんとうの妹ごだとか。私はいままで何んにも知らなかったので、ついそのおばさんにはよそよそしくばかりしていたが、そのうちに是非ともお訪《たず》ねしてみたいものだ。……
いかにも場末らしく薄汚い請地駅で、ながいこと浅草行の電車を待ちながら、私はそんなことを一人で考え続けていた。
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註一 私の生父の墓のある寺のことは田端のおばさんもよく覚えていなかった。なんでも河内山宗春の墓があるので有名なお寺だとか云うことを知っているだけで、一度も其処《そこ》には往ったことがないそうだ。その後、私は麻布のおばさんのところにお訪《たず》ねしようとときおり思いながら、なかなか往かれないでいるうちに、その年老いたおばさんが突然|亡《な》くなられてしまわれた。私は何んとも取りかえしのつかない事をしてしまった。しかし、私の知りたがっていた生父の墓だけは、そのおなじ寺にそのおばさんも葬られることになったので、図らずもそれを知ることが出来た。その寺は高徳寺といって、やはり青山にあった。静かな裏通りの、或る路地のつきあたりに、その黒い門を見いだしたとき、ああ、これだったのかと思った。門のかたわらで樒《しきみ》などをひさいでいる爺は、もう八十を越していそうなほどの老人で、それに聞いてみたら私の生父のことなどもよく覚えていそうな気がした。しかし私はなんにも聞かずに、ただ老爺の方にしばらく目を注いだきりで、そのままその小屋のまえを通り過ぎてしまった。
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底本:「幼年時代・晩夏」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年8月5日発行
1970(昭和45)年1月30日16刷改版
1987(昭和62)年9月15日38刷
初出:「文學界」
1942(昭和17)年8月号
初収単行本:「幼年時代」青磁社
1942(昭和17)年8月20日
※初出情報は、「堀辰雄全集第2巻」筑摩書房、1977(昭和52)年8月30日、解題による。
※底本には、複数の作品の註がまとめて掲載してありましたが、ここでは、本作品に対するもののみを、通し番号を付け替えて、ファイル末におきました。
入力:kompass
校正:染川隆俊
2004年1月21日作成
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