になってしまう人、――誰でもが私の母のことをそう云う。そういう負けず嫌《ぎら》いな母がおようさんのあとにくると、父は急に醒《さ》めた人のようになって、為事にも身を入れ出した。そうして小梅の家は以前にもまして、あかるく、人出入りが多くなっていった。
父も母も、江戸っ子|肌《はだ》の、さっぱりした気性の人であったから、そのまま私のことでは一度も悶着《もんちゃく》したこともないらしく、誰れの目にもほんとうの親子と思われるほどだった。それからまた、おようさんとも以前とかわらずに附き合って、由次郎にもずっとうちの為事をしてもらっていた。
小さな私だけはなんにも知らないで、いつかその由次郎にもなついて、来るとかならず肩車に乗せてもらって、用達《ようた》しにも一しょについていったりしていた。
その五つか六つぐらいの頃の私は、いまの私とはちがって、かなりな道化ものでもあったようだ。父や母につれられて、おばさんの家などに行くと、おばさんにすぐ三味線をじゃかじゃか鳴らして貰《もら》って、自分は手拭《てぬぐい》を頭の上にちょいとのせ、妙な手つきや腰つきをして、「猫じゃ、猫じゃ……」とひとりで唄いながら、皆にひと踊り踊ってみせた。そんな俗踊をいつのまにか見よう見真似《みまね》で覚えてしまったのである。
私の生父は、裁判所などに出ていても、謹厳一方の人ではなかったらしく、三味線の音色を何よりも好んでいたそうである。その血すじをひいた生父のことはもうすっかり忘れてしまって、私のことをかわいがっていてくれる新しい父や母やそのほかの人々の間で、何も知らず、ただ無心に、おばさんの三味線に合わせながら「猫じゃ、猫じゃ」を踊っていた、小さな道化ものの自分の姿が、いま思いかえしてみると、自分のことながらなかなかにあわれ深く思えてならない。……
七
雪の下のたいそう美しく咲いていた、田端の、おじさんとおばさんとの家で、私が六月の日の傾くのも知らずに聞いた自分の生《お》い立ちや私の母の話を、以上、そのままにざあっと書いてみた。
いまの私には、父の死の前後から中絶しがちになっていた小説「幼年時代」を再び取り上げて、書きつづける気もちにはどうしてもなれないので、それはそれで打ち切り、こんど改めておばさんたちに聞いた話は、此処《ここ》にはほんの拾遺のようなものとして附け加えておくに止
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