花を持てる女
堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)亡《な》き母

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小春|日和《びより》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#アステリズム、1−12−94]
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        一

 私はその日はじめて妻をつれて亡《な》き母の墓まいりに往《い》った。
 円通寺というその古い寺のある請地町《うけじまち》は、向島《むこうじま》の私たちのうちからそう離れてもいないし、それにそこいらの場末の町々は私の小さい時からいろいろと馴染《なじみ》のあるところなので、一度ぐらいはそういうところも妻に見せておこうと思って、寺まで曳舟通《ひきふねどお》りを歩いていってみることにした。私たちのうちを出て、源森川に添ってしばらく往くと、やがて曳舟通りに出る。それからその掘割に添いながら、北に向うと、庚申塚《こうしんづか》橋とか、小梅橋とか、七本松橋とか、そういうなつかしい名まえをもった木の橋がいくつも私たちの目のまえに現れては消える。ここいらも震災後、まるっきり変ってしまったけれども、またいつのまにか以前《せん》のように、右岸には大きな工場が立ち並び、左岸には低い汚《きたな》い小家がぎっしりと詰まって、相対しながら掘割を挾《はさ》んでいるのだった。くさい、濁った水のいろも、昔のままといえば昔のままだった。
 地蔵橋という古い木の橋を私たちは渡って、向う側の狭い横町へはいって往った。すぐもうそこには左がわに飛木稲荷《とびきいなり》の枯れて葉を失った銀杏《いちょう》の古木が空にそびえ立っている。円通寺はその裏になっていて、墓地だけがその古い銀杏と道をへだてて右がわにある。黒いトタン塀《べい》の割れ目から大小さまざまな墓石を通行人の目に触れるがままに任せて。……
 もうすこしゆくと請地の踏切に出るのだが、ここいらはことのほか、いかにもごみごみした、汚い、場末じみた光景を残している。乾物屋と油屋の間に挾まれた、花屋というのも名ばかりのような店先で、花を少しばかり買い、それから寺に立ち寄って寺男に声をかけ、私たちだけで先きに墓地のほうへ往った。
 墓地は、道路よりも低くなっているので、気味わるく湿《じ》め湿
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