を呼ばれたような気がした。あたりを見廻してみたが、それらしいものは見えなかった。おかしいなと思っていると、また彼の名前を呼ぶものがあった。今度はややはっきり聞えたのでその声のした方を振り向いてみると、そこには彼のいる小径から三尺ばかり高まった草叢《くさむら》があり、その向うに一人の男がカンバスに向っているのが見えるのだ。その男の顔を見ると彼は一人の友人を思い出した。
 彼はやっとこさその上に這《は》い上って、その友人のそばへ近よって行った。が、その友人は、彼にはべつに何にも話しかけようとせずに、そのまま熱心にカンバスに向っていた。彼も話しかけない方がいいのだろうと思った。そうしてそこへ腰を下ろしたまま黙ってその描きかけの絵を見まもっていた。彼はときどきその絵のモチイフになっている風景をそのあたりに捜したりした。しかしそれらしい風景はどうしても捜しあてることが出来なかった。なにしろその画布の上には、唯《ただ》、さまざまな色をした魚のようなものや小鳥のようなものや花のようなものが入り混っているだけだったから。
 しばらくその奇妙な絵に見入っていたが、やがて彼はそっと立ちあがった。すると立ちあがりつつある彼を見上げながら、友人は言った。
「まあ、いいじゃないか。僕は今日《きょう》東京へ帰るんだよ」
「今日帰る? だって、まだその絵、出来てないんじゃないの?」
「出来てないよ。だが僕はもう帰らなければならないんだ」
「どうしてさ」
 友人はそれに答えるかわりに再び自分の絵の上に眼を落した。しばらくその一部分に彼の眼は強く吸いつけられているかのようであった。

        ※[#アステリズム、1−12−94]

 彼はひとり先きにホテルに帰って、昼食を共にしようと約束をしたさっきの友人の来るのを客間で待っていた。
 彼は客間の窓から顔を出して中庭に咲いている向日葵《ひまわり》の花をぼんやり眺《なが》めていた。それは西洋人よりも脊高く伸びていた。
 ホテルの裏のテニス・コオトからはまるで三鞭酒《シャンパン》を抜くようなラケットの音が愉快そうに聞えてくるのである。
 彼は突然立上った。そして窓ぎわの卓子の前に坐り直した。それから彼はペンを取りあげた。しかしその上にはあいにく一枚の紙もなかったので、彼はそこに備え付けの大きな吸取紙の上に不恰好《ぶかっこう》な字をいくつもにじませて行った。
[#ここから3字下げ]
ホテルは鸚鵡《おうむ》
鸚鵡の耳からジュリエットが顔を出す
しかしロミオは居りません
ロミオはテニスをしているのでしょう
鸚鵡が口をあけたら
黒ん坊がまる見えになった
[#ここで字下げ終わり]

 彼はもう一度それを読み返そうとしたが、すっかりインクがにじんでしまっていて何を書いたのか少しも分らなくなってしまっていた。
 それでもやはり彼は、約束の時間よりもすこし遅れてやってきた友人がひょいとそれを覗《のぞ》き込んだ時には、それを裏返えしにした。
「隠さなくてもいいじゃないか?」
「これは何でもないんだ」
「ちゃんと知ってるよ」
「何をさ」
「一昨日、いいところを見ちゃったから」
「一昨日だって? なんだ、あれか」
「だから今日は君が奢《おご》るんだよ」
「あれは、君、そんなもんじゃないよ」
 あれはただ浅間山の麓《ふもと》まで自動車で彼女たちのお供をしただけだ。「たったそれだけ」だったのだ。――彼は再びその時の夫人の言葉を思い出した。そしてひとりで顔を赧《あか》くした。
 それから彼等は食堂へはいって行った。それを機会に彼は話題を換えようとした。
「ときに君の絵はどうしたい?」
「僕の絵? あれはあのままだ」
「惜しいじゃないか?」
「どうも仕方がないんだ。ここは風景は上等だが、描きにくくて困るね。去年も僕は描きに来たんだが駄目さ。空気があんまり良すぎるんだね。どんなに遠くの木の葉でも、一枚一枚はっきり見えてしまうんだ。それでどうにもならなくなるんだよ」
「ふん、そんなものかね……」
 彼はスウプを匙《さじ》ですくいながら、思わずその手を休めて、自分自身のことを考えた。ことによると、自分と彼女との関係がちっとも思うように進行しないのは、ひとつはここの空気があんまり良すぎて、どんなに小さな心理までも互にはっきり見えてしまうからかも知れない。彼はそれを信じようとさえした。
 そして彼は考えた。描きかけの風景画をたずさえてこれから東京へ帰ろうとしているこの友人と同様に、自分もまた数日したら、それも恐らく描きかけのままになるであろう自分の「ルウベンスの偽画」をたずさえて再びここを立ち去るより他《ほか》はないであろうか?

 午後になって、その友人を町はずれまで見送ってから、彼はひとりで彼女の家を訪れた。
 丁度ふたりでお茶を飲んでいると
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