。たまたま私達の許《もと》に訪れて来るような人でもあると、その青稲をそのまま馬に飼ってやっているのも、いかにもあわれが深かった。小鷹狩が好きなので、ときおり野へ出ては鷹を舞い上がらせたりしているものの、こんなところでもって一緒に暮らすようになった道綱は、まだ若いだけ、何んだかすべてが物足らなさそうに見えた。
そのままやがて冬になろうという頃、こちらではもうすっかり仲の絶えた気でいた殿の許から、突然、冬の着物を使いの者に持って来させて、これを仕立ててくれなどと言って来られた。「御文もありましたが、途中に落して来てしまいました」と使いの者がしきりに言《い》い訣《わけ》をしていたが、最初からそんなものはお持たせにならなかったのだろうと思われた。私はもう意地を立てとおす気もなく、言われるなりにそれを仕立てて、こちらからも文を附けずに送って差し上げた。その後、そんな事が二度も三度も続いてあった。なかなか仲が絶えそうで絶えないのが気になったが、それもまあこんな縫物位のためではと、私達の果敢《はか》なかった仲がいまさらのように思い返されたりしているうちに、その年も暮れたのだった。
ながいこと大夫《たいふ》の位より昇進しなかった道綱が、ようやく右馬助《うまのすけ》に叙せられたのは、その翌年の除目《じもく》の折だった。殿からも珍らしくお喜びの御文を下さったりした。今度の昇進はよっぽど道綱も嬉しいと見え、いそいそとして其処此処御礼まわりなどに歩いていたが、その寮《つかさ》(右馬寮)の長官が丁度道綱には叔父にあたる御方なので、其処へも或日お伺いすると、まだお若いその御方は非常に歓《よろこ》ばれて、よもやまな物語の末、何処からお聞きになって知っていらしったのか、私の手許に養っている撫子の事を何くれとなくお問いになり、「御いくつになられました?」などと熱心に訊《き》かれたそうだった。帰って来てから、道綱が私にその事を話して聞かせたが、私は「まあ、いくらお好色《すき》な方だって、こんな撫子を御覧になったら――」と答えたぎり、なんとも気にはとめなかった。
撫子は去年志賀の里から私の許に引き取られてきた頃から見れば、だいぶ大人寂《おとなさ》びた美しさも具え出して来てはいる。そして幼少の折からいろいろ苦労をして来たせいか、年の割には世の中の事は何もかも分かるようで、私の前なんぞでは山里に一人佗
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