てしまおうとして、「そうなって鷹も飼えなくなられたら、どうしますか」と言うと、道綱はいきなり立ち上って往って、自分の飼っていた鷹を籠《かご》から出して矢のように放してしまった。それを傍で見ていたもので泣き出さないものはなかった。
丁度その暮がたに、あの方から御文が来た。また天下の空言《そらごと》だろうと思えるので、気強く「只今は心もちが悪うございますので、いずれ後ほど――」とそのまま使いの者を返させた。そんな事もあった。
七月、――お盆が近いので何かと世間では騒ぎ出していた。毎年母の盆供《ぼに》の事だけはあの方が几帳面《きちょうめん》になさって下すっていたのに、今年はどうなるのやら。もうあの方も私からお離《か》れになったのかと、亡き母も地下で悲しくお思いになるかも知れない、しかしまあ、もうすこし待って見ようと思っていたところへ、何時ものようにちゃんと盆供を調えて下すった上、御文まで添えてあった。私はそこで「亡くなった人の事はお忘れでないと見えます。しかしわたくしの事などは――いいえ、こんな果敢《はか》ない身の事などは、本当に自分でも忘れられたら忘れてしまいたい位なのですものを」と例によって少しひねくれて書いてやった。
やがて相撲《すまい》の頃になった。もう十六になった道綱がしきりにそれへ往きたそうにしているので、装束をつけさせて、先ず殿のもとへと言いつけて出してやった。その夕方、あの方が車の後《しり》へでも乗せて送って来て下さるかと思っていると、他の人に送られて来た。その次の日も道綱は出かけて往ったが、夕方、また雑色《ぞうしき》などに送られて来た。子供心にも、いつもなら御一緒に送って下さるものをと、そうやって一人ぼっちで帰って来るのがどんな思いであろうに。……
ところが、八月にはいって、或日の夕方、突然あの方がお見えになった。「明日は物忌《ものいみ》だから門を強く鎖《とざ》しておけ」などとお言いつけになって入らっしゃるらしかった。私はもう物も言われない位、胸が沸き立つような気もちがしていると、あの方は道綱をお側に引きよせられて、そんな私の方をちらっと見やっては、何かひそひそと耳打ちしていらしっていた。「我慢をしておいで」なぞと囁《ささや》いているのが、ふと私の耳にも入ったりする。しかし私はどうにもしようがなしに、黙ったまま向き合っていた。翌日も、一日中あの
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