そらく神はかように私が欺かれることを欲しなかったであろう、なぜなら神はこの上なく善であると言われているから。しかるにもしこのこと、すなわち私を常に過つようなものとして創造したということが神の善意に反するとするならば、私がときどき過つことを許すということも神の善意と相容れないように思われる、けれどもこの最後のことはそうは言い得ないのである。
もちろん、余のすべてのものが不確実であると信ずるよりか、むしろそのように有力な神を否定することを選ぶ者がたぶんあるであろう。しかし我々はいまは彼等に反対せずにおこう。そして神についてここで言われた全部が虚構であるとしておこう。さりながら、彼等がどのような仕方で、運命によるにせよ、偶然によるにせよ、物の連続的な聯結によるにせよ、あるいは何か他の仕方によるにせよ、私が私の現に有るものに成るに至ったと仮定するにしても、過つこと思い違いすることは或る不完全性であると思われるからして、彼等が私の起原の創造者をより無力であると考えれば考えるほど、私が常に過つほど不完全であるということは、ますます確からしくなるであろう。この議論に対して私はまことに何ら答うべきものを有しない。しかし私は、かつて私が真と思ったもののうちに疑うことを許さぬものは何もないこと、しかもこれは無思慮とか軽率とかによるのではなく、強力な熟慮せられた理由によるのであること、従ってもし私が何か確実なものを見出そうと欲するならば、この議論に対しても、明白に偽のものに対してと劣らず用心して、今後は同意を差し控えねばならないこと、を告白せざるを得ないのである。
しかしながら、これらのことに気づいただけでは未だ十分ではない、いつも念頭におくように心を用いなければならぬ。というのは、習いとなった意見は絶えず還ってきて、いわば長い間の慣わしと親しさの権利とによって己れに愛着している私の信じ易い心を、ほとんど私の意に反してさえも、占領するからである。また私がこの意見を、それが実際さうであるような性質のもの、すなわち、すでに示されたごとく、なるほど多少疑わしいが、にもかかわらずはなはだ確からしいもの、従ってそれを否定するよりも信ずることが遥かに多く道理に適っているもの、であると見做す間は、私は決してそれに同意しそれを信用する習慣を脱しないであろう。かるがゆえに、私が意志をまったく反対の方向に転じて、自分を欺き、そしてしばらくの間すべての意見が偽で空想的であると仮想し、かくして遂に、いわば偏見の重量を双方ともに同等のものとし、もはや曲った習慣が私の判断をものの正しい知覚から逸らせないようにしても、私は不都合なことはしてはいまいと思う。実際、かくすることから何らの危険も誤謬もその間に生じてこないであろうということ、また現在私は実行に関することがらではなくただ認識に関することがらに専心従事しているのであるから、いかに不信を逞うしても、それが過ぎることはあり得ないということ、を私は知っているのである。
そこで私は真理の源泉たる最善の神ではなく、或る悪意のある、同時にこの上なく有力で老獪な霊が、私を欺くことに自己の全力を傾けたと仮定しよう。そして天、空気、地、色、形体、音、その他一切の外物は、この霊が私の信じ易い心に罠をかけた夢の幻影にほかならないと考えよう。また私自身は手も、眼も、肉も、血も、何らの感官も有しないもので、ただ間違って私はこのすべてを有すると思っているものと見よう。私は堅くこの省察に執着して踏み留まろう。そしてかようにして、もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、確かに次のことは私の力のうちにある。すなわち私は断乎として、偽なるものに同意しないように、またいかに有力で、いかに老獪であろうとも、この欺瞞者が何も私に押しつけ得ないように、用心するであろう。しかしながらこれは骨の折れる企てである、そして或る怠慢が私を平素の生活の仕方に返えらせる。そのさまは、おそらく夢の中で空想的な自由を味わっていた囚われびとが、後になって自分は眠っているのではないかと疑い始める場合、喚び醒まされるのを恐れこの快い幻想と共にゆっくり眠りつづけるのと異ならないのであって、そのように私はおのずと再び古い意見のうちに落ち込み、そしてこの睡眠の平穏に苦労の多い覚醒がつづき、しかも光の中においてではなく、かえって既に提出せられたもろもろの困難の解けない闇のあいだで、将来、時を過ごさねばならぬことのないように、覚めることを怖れるのである。
[#改丁]
省察二
人間の精神の本性について。精神は身体よりも容易に知られるということ。
昨日の省察によって私は懐疑のうちに投げ込まれた。それは私のもはや忘れ得ないほど大きなものであり、しかも私はそれがいかなる仕方で解決すべきものであるかを知らないのである。かえって、あたかも渦巻く深淵の中へ不意に落ち込んだように、私は狼狽して、足を底に着けることもできなければ、泳いで水面へ脱出することもできないというさまであった。しかしなおも私は努力し、昨日進んだと同じ道を、もちろん、極めてわずかであれ疑いを容れるものはすべて、あたかもそれが全く偽であることを私がはっきり知っているのと同じように、払い除けつつ、改めて辿ろう。そして何か確実なものに、あるいは、余のことが何もできねば、少くともまさにこのこと、すなわち、確実なものは何もないということを確実なこととして認識するに至るまで、さらに先へ歩み続けよう。アルキメデスは、全地球をその場所から移動させるために、一つの確固不動の点のほか何も求めなかった。もし私が極めてわずかなものであれ何か確実で揺るがし得ないものを見出すならば、私はまた大きなものを希望することができるのである。
そこで私は、私が見るすべてのものは偽であると仮定する。また、私はひとを欺く記憶が表現するものはいかなるものにせよかつて存在しなかったと信じることにする。私はまったく何らの感官も有しないとする。物体、形体、延長、運動及び場所は幻想であるとする。しからば真であるのは何であろうか。たぶんこの一つのこと、すなわち、確実なものは何もないということであろう。
しかしながらどこから私は、いましがた数え上げたすべてのものとは別で、少しの疑うべき余地もない或るものが存しないことを、知っているのであるか。何か神というもの、あるいはそれをどのような名前で呼ぶにせよ、何か、まさにこのような思想を私に注ぎ込むものが存するのではあるまいか。しかし何故に私はこのようなことを考えるのであるか、たぶん私自身がかの思想の作者であり得るのであるのに。それゆえに少くとも私は或るものであるのではあるまいか。しかしながら既に私は、私が何らかの感官、または何らかの身体を有することを否定したのであった。とはいえ私は立ち止まらされる、というのは、このことから何が帰結するのであるか。いったい私は身体や感官に、これなしには存し得ないほど、結いつけられているのであろうか。しかしながら私は、世界のうちに全く何物も、何らの天も、何らの地も、何らの精神も、何らの身体も、存しないと私を説得したのであった。従ってまた私は存しないと説得したのではなかろうか。否、実に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る[#「私は有る」に傍点]、私は存在する[#「私は存在する」に傍点]、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。
しかし、いま必然的に有る私、その私がいったい何であるかは、私は未だ十分に理解しないのである。そこで次に、おそらく何か他のものを不用意に私と思い違いしないように、かくてまたこのすべてのうち最も確実で最も明証的であると私の主張する認識においてさえ踏み迷うことがないように、注意しなければならない。かるがゆえにいま、この思索に入った以前、かつて私はいったい何ものであると私が信じたのか、改めて省察しよう。このものから次に何であれ右に示した根拠によって極めてわずかなりとも薄弱にせられ得るものは引き去り、かくて遂にまさしく確実で揺がし得ないもののみが残るようにしよう。
そこで以前、私はいったい何であると考えたのか。言うまでもなく、人間と考えたのであった。しかしながら人間とは何か。理性的動物と私は言うでもあろうか。否。何故というに、さすれば後に、動物とはいったい何か、また理性的とは何か、と問わねばならないであろうし、そしてかようにして私は一個の問題から多数の、しかもいっそう困難な問題へ落ち込むであろうから。またいま私はこのような煩瑣な問題で空費しようと欲するほど多くの閑暇を有しないのである。むしろ私はここで、私は何であるかと私が考察したたびごとに、何が以前私の思想に、おのずと、私の本性に導かれて、現われたか、に注意しよう。そこに現われたのは、もちろん、まず第一に、私が顔、手、腕、そしてこのもろもろの部分の全体の機械を有するということであって、かようなものは死骸においても認められ、そしてこれを私は身体と名づけたのである。なおまた、そこに現われたのは、私が栄養をとり、歩行し、感覚し、思惟するということであって、これらの活動を私は霊魂に関係づけたのである。しかしながらこの霊魂が何であるかに、私は注意を向けなかったか、それともこれを風とか火とか空気とかに似た、私のいっそう粗大な部分に注ぎ込まれた、何か知らぬが或る微細なものと想像した。物体については私は決して疑わず、判明にその本性を知っていると思っていた。これをもしおそらく、私が精神によって把握したごとくに、記述することを試みたならば、私は次のように説明したであろう。曰く、物体とはすべて、何らかの形体によって限られ、場所によって囲まれ、他のあらゆる物体を排するごとくに空間を充たすところの性質を有するもの、すべて、触覚、視覚、聴覚、味覚、あるいは嗅覚によって知覚せられ、そして実に多くの仕方で、決して自己自身によってではなく、他のものによって、そのどこかに触れられて、動かされるところの性質を有するものである、と。すなわち、自己自身を動かす力、同じように、感覚する、あるいは思惟する力を有することは、決して物体の本性に属しないと私は判断したのであり、のみならずかような能力が或る物体のうちに見出されることに私はむしろ驚いたのである。
しかし現在、或る極めて有力な、そして、もしそういうことが許されるならば、悪意のある、欺瞞者が、あらゆる点において、できる限り、私を欺くことに、骨を折っていると仮定する場合、どうであろうか。私は、物体の本性に属するとさきほど言ったすべてのものうち極めてわずかなものであれ私が有することを確認し得るものがあろうか。私は注意し、考え、また考える。私が有すると言い得るものには何も出会わない。私は同じことを空しく繰り返すことに疲れる。しからば霊魂に属するとしたものは、どうであろうか。栄養をとるとか歩行するとかいうことは? 実にいま私は身体を有しないのであるから、これもまた作りごと以外の何ものでもない。感覚することは? もちろんこれも身体がなければ存しないものであり、また私は夢において、後になって実際に感覚したのではないと気づいた非常に多くのことを感覚すると思ったのである。思惟することは? ここに私は発見する、思惟がそれだ、と。これのみは私から切り離し得ないのである。私は有る
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