しましたすべての誤謬はまもなくもろもろの人間の精神から拭い去られるますことを、私は疑わないのであります。すなわち、真理そのものは容易に余の智能の士並びに博学の士が諸賢の判断に同意いたすようにするでありましょう。また権威は、智能の士とか博学の士とかであるよりもむしろ多くは一知半解の徒であるのを慣わしといたします無神論者が、反対する心を棄てるように、それのみかは、おそらくすべての学識ある人々によってそれが論証と看做されていることを彼等が知っているところの根拠を、理解せぬと思われたくないために、彼等みずから弁護するようにさえ、するでありましょう。そして最後に、その余のすべての者はかくも多くの証拠に容易に信をおくでありましょう。そしてもはや世の中には神の存在とか、人間の霊魂と肉体との実在的な区別とかを敢えて疑う者は誰もないでありましょう。そのことがいかほど有益であるかは、諸賢みずから、諸賢の並々ならぬ叡智において、すべての人のうちで最もよく評価せられることができる次第であります。つねにカトリック教会の最大の柱石であらせられた諸賢に、神と宗教とに関することがらをこれ以上の言葉を費してここに推薦いたしますことは、私にはふさわしくないでありましょう。
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読者への序言
神及び人間の精神に関する問題は、すでに少し前、フランス語で一六三七年に公にせられた『理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を求めるための方法の叙説』の中で、私は触れた。もっともそれは、この問題をかしこで厳密に取扱うためではなく、ただこれにちょっと触れて、読者の判断から、いかなる仕方で後にこれを取扱うべきかを、知るためであった。というのは、この問題は私には極めて重要なものと思われたので、一度ならずこれについて論じなければならぬと私は判断したのである。またこの問題を説明するために私が辿る道は、ほとんど先蹤のないもので、一般の慣用から極めてかけ離れたものであるので、智能の脆弱な者がこの道を自分も歩まねばならぬと信じると悪いから、これをフランス語で書かれた、差別なしにすべての人に読まるべき書物の中で、あれ以上詳細に述べるということは、益のないことと考えたのである。
しかし私はかしこで、私の書物において何か非難に値いすることがらに出会ったすべての人に、これを私に知らせていただくようにお願いしたが、右の問題について私が触れたことがらに関して、二つしか注目に値いする駁論は出なかった。この駁論に対して私はここで、右の問題のさらに厳密な説明を企てるに先立って、簡単に答えたい。
第一の駁論は、自己に向けられた人間の精神は、自己を思惟するものであるとしか知覚しないということから、その本性すなわち本質[#「本質」に傍点]はただ、思惟するものであることに、このただ[#「ただ」に傍点]という語がおそらくはまた霊魂の本性に属すると言われ得るであろう余のすべてを排除する意味において、存するということは帰結しない、というのである。この駁論に対して私は答える、私もまたかしこで余のすべてを、ものの真理そのものに関する秩序において(これについてもちろん私はあのとき論じたのではない)排除しようと欲したのではなく、かえって単に私の知覚に関する秩序において排除しようと欲したのである、と。かくてその意味は、私の本質に属すると私が知るものとしては、私は思惟するもの、すなわち自己のうちに思惟する能力を有するものであるということのほか何物も私はまったく認識しないということであった、と。しかし以下において私は、いかにして、そのほかの何物も私の本性に属しないと私が認識することから、また実際にそのほかの何物も私の本性に属しないということが帰結するかを明白にするであろう。
もう一つの駁論は、私が私のうちに私よりも完全なものの観念を有するということから、この観念が私よりも完全であるということ、ましてこの観念によって表現せられるものが存在するということは帰結しない、というのである。しかし私は答える、この場合、観念なる語に両義性が伏在すると。すなわち、それは一方質料的に、悟性の作用の意味に解せられることができ、この意味においては私よりも完全とは言われ得ないが、他方それは客観的に、この作用によって表現せられたものの意味に解せられることができ、このものは、たとい悟性の外に存在すると仮定せられなくとも、自己の本質にもとづいて私より完全であり得る、と。しかし、いかにして、ただこのこと、すなわち私のうちに私よりも完全なものの観念があるということから、かのものが実際に存在するということが帰結するかは、以下において詳細に解明せられるであろう。
ほかに私は二つのかなり長い文章を見た。しかしその中では右の問題についての私の根拠ではなくむしろ結論が、無神論者たちのきまり文句から借りてこられた議論でもって駁撃せられているのである。ところで、この種の議論は、私の根拠を理解する人々の前では何らの力も有し得ないからして、また実に、多くの人々の判断は弱くて正しからず、たとい偽であり、理を離れたものであっても、最初に受け取った意見によってのほうが、真で堅固な、しかし後に聞いたその反駁によってよりも、いっそう多く説得せられるものであるから、ここではその議論に対して私が最初に述べねばならぬとすると悪いから、答弁することを欲しない。そしてただ一般的に私は言っておこう、神の存在を駁撃するために無神論者たちによって通例持ち出される一切は、つねに、人間的な情念が間違って神に属せしめられることに、あるいは僣越にも、神の為し得ることまた為すべきことを決定しまた理解することまでを我々が欲求し得るほど多くの力と智慧とが我々の精神に属せしめられることに、懸っており、かくて実に、我々がただ、我々の精神は有限で、神はしかし理解を超え無限であると考えねばならぬことを忘れない限り、かの論駁は我々に何らの困難も示さないであろう、と。
さて今、ともかく一度人々の判断を知った後、ここに再び私は神と人間の精神とに関する問題を論究し、そして同時に全第一哲学の基礎を取扱おうと思う。しかしその際私は何ら大衆の称賛を、また何ら読者の多いことを期待しないであろう。私はただ本気で私と共に思索し、精神をもろもろの感覚から、また同時にすべての先入見から引離すことができまた引き離すことを欲する人々だけに読まれるように、これを書いたのであって、かような人がまったくわずかしか見出されないことを私は十分に知っている。しかるに私の根拠の連結と聯関とを理解することに意を用いないで、多くの人々にとって慣わしであるように、ただ箇々の語句に拘泥して、お喋りをすることに熱心な人々についていえば、彼等はこの書物を読むことから大きな利益を収めないであろう。そしてたとい彼等がおそらく多くの箇所において嘲笑する機会を発見するにしても、何か緊要なあるいは答弁に値する駁論は容易になし得ないであろう。
しかしまた他の人々に対しても、私がすべての点において初手から彼等を満足させるであろうと私は約束しないのであるからして、また僣越にも私が何人かに困難と思われるであろう一切のことがらを予見し得ると私は確信しないのであるからして、私はまずこれらの省察において、私がそれによって真理の確実な明証的な認識に到達したと思われるところの同一の思惟の作用を開陳し、もって私が説得せられたのと同じ根拠によっておそらく私は他の人々をも説得し得るかどうかを知りたいと思う。そして、かくして後、これらの省察を印刷に附せられる前に検討してもらうために送った幾人かの智能と学識とによってすぐれた人々の駁論に対して答えるであろう。というのは、この人々によってなされた駁論は十分に数多くまた種々様々であるので、そこにすでに触れられていない、少くとも或る重要な、他の駁論が容易に何人の心にも浮かばないであろう、と私は敢えて期待するのである。そしてかるがゆえに、私は読者に、右のすべての駁論及びこれに対する弁明を通読する労力をとられない以前に、この省察について判断を下されないように、繰り返しお願いする。
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以下の六省察の概要
第一省察においては、いかなるわけで我々はすべてのもの、とりわけ物質的なものについて、少くとも我々がこれまで有したものよりほかの、もろもろの学問の基礎を有しない間は、疑うことができるかの理由が示される。かような全般的な懐疑の効用は初手には明かではないとはいえ、しかしそれはあらゆる先入見から我々を解放し、精神を感覚から引き離すに最も容易な道を用意し、そして最後に、我々がかくして後に真であると理解したことについてもはや疑い得ないようにするという点において、その効用は極めて大きいのである。
第二省察においては、自己の有する自由を使用する精神は、その存在について極めて少しでも疑い得る一切は存在しないと仮定するが、自身はしかし存在せざるを得ないことに気づくのである。そのことはまた、このようにして、自己に、すなわち思惟する本性に属するものと、身体に属するものとを容易に区別するからして、極めて大きな効用を有している。しかしおそらく或る者は、その箇所において霊魂の不死についての根拠を期待するであろうから、ここで彼等に告げておかねばならぬと思う、私は厳密に論証しない何物も書かないことに努めたので、幾何学者たちの間で慣用せられている順序、すなわち何かを結論する前に、求められた命題が依繁する一切を前もって提論するという順序よりほかの順序に従うことができなかった、と。しかるに霊魂の不死をよく認識するために前もって要求せられる第一の何より重要なことがらは、霊魂についてできるだけ分明な、そして身体のあらゆる概念からまったく区別せられた概念を作るということである。これはそこでなされている。しかしそのほかに、我々が明晰に判明に理解する一切は、我々がそれを理解する通りに、真であるということを知ることがまた要求せられるのである。これは第四省察以前には証明せられることができなかった。さらに、物体的本性の判明な概念を有しなければならないのであって、かかる概念は一部分この第二省察において、また一部分は第五及び第六省察において作られている。なおまたこれら一切のことから、精神と身体とがまさにそのように把握せられるごとく、別個の実体として明晰に判明に把握せられるものは、全く実在的に互に区別せられた実体であることが結論せられねばならないのである。そしてこれは第六省察においてその通り結論せられている。これはしかも、同じ第六省察において、我々はいかなる物体も可分的としてでなければ理解せず、反対にいかなる精神も不可分的としてでなければ理解しないということによって、確かめられている。すなわち我々はどのように小さい物体でもその半分を考えることはできるが、いかなる精神についてもその半分を考えることはできぬ。かようにして両者の本性は単に別であるのみでなく、また或る点で相反することが認められる。しかしながらこのことについてはこの書物の中ではそれ以上立ち入って論じなかった。というのは、一方それだけで、身体の消滅から精神の死が帰結しないことを示し、そしてかようにして人間に来世の生の希望を与えるには、十分であるからであり、他方またこの精神の不死を結論し得るもろもろの前提はあらゆる自然学からの説明に依繁しているからである。すなわちまず、およそあらゆる実体、詳しく言うと、存在するためには神によって創造せられねばならぬものは、自己の本性上不滅であり、その同じ神によって、そのものに神の協力が拒まれることによって、無に帰せしめられるのでなければ、決してあることをやめ得ないということが知られねばならぬ。そして次に、一般的に見られた物体は実体であり、それがために決してまた滅びないということ、しかし人間[#「人間」は底本では「人問」]の身体は、余の物体と異なる限り、ただ単にもろもろの器官の或
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