られると結論するであろう。ところで、もしいま私がたまたま窓から、街道を通っている人間を眺めたならば、私は彼等についても蜜蝋についてと同じく習慣に従って、私は人間そのものを見る、と言う。けれども私は帽子と着物とのほか何を見るのか、その下には自動機械が隠されていることもあり得るではないか。しかしながら私は、それは人間である、と判断する。そしてかように私は、私が眼で見ると思ったものでも、これをもっぱら私の精神のうちにある判断の能力によって把捉するのである。
しかしながら自己の知識を一般人を超えて高めようと欲する者は、一般人が発明した話の形式から懐疑を探し出したことを恥じるであろう。我々は絶えず先へ進もう。いったい私が蜜蝋の何であるかをいっそう完全にいっそう明証的に知覚したのは、最初私が蜜蝋を眺め、そしてこれを外的感覚そのものによって、あるいは少くとも人々のいわゆる共通感覚によって、言い換えると想像的な力によって、認識すると信じた時であるか、それとも実にむしろ現在、すなわち一方蜜蝋が何であるかを、他方いかなる仕方で認識せられるかを、いっそう注意深く探究した後であるか、に注目しよう。このことに
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