そして自由にそのことを信じたのである。しかるに今、私は私が或る思惟するものである限りにおいて存在することを知っているのみでなく、さらにまた物体的本性の或る観念が私に現われている、そこで、私のうちにあるところのあるいはむしろ私自身であるところの思惟する本性が、かかる物体的本性とは別のものであるか、それとも両者は同一のものであるか、という疑いが生じてくる。そして私は、この一方を他方よりも多く私に説得する何らの根拠も未だ私の悟性に現われていないと仮定する。まさにこのことから確かに私は、両者のいずれを肯定すべきか若しくは否定すべきか、それともまたこのことについて何も判断を下すべきでないか、に対して不決定であるのである。
実にまたこの不決定は、単に悟性によってまったく何も認識せられないものに及ぶのみでなく、また一般に、意志がそれについて商量している時に当って悟性がそれを十分に分明に認識していないというすべてのものにも及ぶのである。なぜなら、たとい蓋然的な推測が私を一方の側へ引張るにしても、それが単に推測であって、確実なそして疑い得ぬ根拠ではないというただ一つの認識は、私の同意を反対の側へ動かすに十分であるから。このことを私はこの数日、以前に極めて真なるものと私の信じたすべてのものをば、この一つのこと、すなわちそれについて或る仕方で疑われ得ることがわかったといことによって、まったく偽なるものであると仮定したときに、十分に経験したのである。
ところで何が真であるかを十分に明晰に判明に知覚していない場合、もし実際私が判断を下すことを差し控えるならば、私のかくすることが正しく、私は過つことがないのは明かである。しかるにもし私が肯定するもしくは否定するならば、そのとき私は意志の自由を正しく使用していない、そしてもし偽である側に私を向わせるならば、明かに私は過つ、またもし他の側を掴んで、偶然に、なるほど真理に当りはするにしても、だからといって私は罪を免れないであろう。なぜなら、悟性の知覚がつねに意志の決定に先行しなくてはならぬことは、自然的な光によって明瞭であるから。そしてこの自由意志の正しくない使用のうちに誤謬の形相を構成するところのかの欠存が内在するのである。すなわち、欠存は、作用そのもののうちに、これが私から出てくる限りにおいて、内在するのであって、私が神から受取った能力のうち
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