もの、要するに私が始めからこういうものであると思っていたのと同じものである。しかしながら、注意すべきことは、この蜜蝋の知覚は、視覚の作用でも、触覚の作用でも、想像の作用でもあるのではなく、また、たとい以前にはかように思われたにしても、かつてかようなものであったのではなく、かえってただ単に精神の洞観である、そしてこれは、これを構成しているものに私が向ける注意の多少に応じて、あるいは以前そうであったように不完全で不分明であることも、あるいは現在そうあるように明晰で判明であることもできるのである。
しかるに一方私はいかに私の精神が誤謬に陥り易いものであるかに驚く。というのは、たとい私がこのことどもを自分において黙って、声を上げないで考察するにしても、私は言葉そのものに執着し、そしてほとんど日常の話し方そのものによって欺かれるからである。すなわち我々は、蜜蝋がそこにあるならば、我々は蜜蝋そのものを見る、と言い、我々は色あるいは形体を基として蜜蝋がそこにあると判断する、と我々は言わないのである。そこから私は直ちに、蜜蝋はそれゆえに眼の視る作用によって、ただ単に精神の洞観によってではなく、認識せられると結論するであろう。ところで、もしいま私がたまたま窓から、街道を通っている人間を眺めたならば、私は彼等についても蜜蝋についてと同じく習慣に従って、私は人間そのものを見る、と言う。けれども私は帽子と着物とのほか何を見るのか、その下には自動機械が隠されていることもあり得るではないか。しかしながら私は、それは人間である、と判断する。そしてかように私は、私が眼で見ると思ったものでも、これをもっぱら私の精神のうちにある判断の能力によって把捉するのである。
しかしながら自己の知識を一般人を超えて高めようと欲する者は、一般人が発明した話の形式から懐疑を探し出したことを恥じるであろう。我々は絶えず先へ進もう。いったい私が蜜蝋の何であるかをいっそう完全にいっそう明証的に知覚したのは、最初私が蜜蝋を眺め、そしてこれを外的感覚そのものによって、あるいは少くとも人々のいわゆる共通感覚によって、言い換えると想像的な力によって、認識すると信じた時であるか、それとも実にむしろ現在、すなわち一方蜜蝋が何であるかを、他方いかなる仕方で認識せられるかを、いっそう注意深く探究した後であるか、に注目しよう。このことに
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