すならば、私自身また彼らに劣らぬ精神錯乱と見られるであろう。
いかにもその通りだ。だが私は、夜には眠るのをつねとし、そして夢において、その同じすべてのことを、いな時として彼等狂人が覚めているときに経験するよりもっと真らしくないことをさえ経験する人間でないとでもいうのか。実際、いかにしばしば私は、夜の夢のなかで、かの慣わしとすること、すなわち、私がここに居ること、服を着ていること、煖炉のそばに坐っていることを、信じているか、しかも私は着物を脱いで寝床の中に横たわっているのに。とはいえ現在私は確かに覚めたる眼をもってこの紙片を視ている、私が動かすこの頭は眠ってはいない、私はあらかじめ考えて、意図を持ってこの手を伸ばしかつ感覚している。眠っている場合に生ずることはこのように判明なものではないであろう。それにしても私は他の時には夢のなかでまた同様の意識によって騙されたことを思い出さないとでもいうのか。かかることをさらに注意深く考えるとき、私は覚醒と夢とが決して確実な標識によって区別され得ないことを明かに認めて、驚愕し、そしてこの驚愕そのものは、私は現に夢見ているのだとの意見を私にほとんど説得するのである。
それゆえにいま、我々は夢みているものとしよう。そしてこの特殊的なもの、すなわち、我々が眼を開くこと、頭を動かすこと、手を伸ばすこと、が真でなく、いな、またおそらく我々はかような手も、またかような身体全体も有するのではないとしよう。それにしても実際我々は、睡眠の間に見られたものが、あたかもかの現実にあるものに象《かたど》ってでなければ作られ得ぬところの絵に画かれた像のごときものであること、従って少くともこの一般的なもの、すなわち、眼、頭、手、また全部の身体は、或る空想的なものではなくて真なるものとして存在することを、承認しなければならぬ。というのは、実に彼等画家は、セイレネスやサチュロイを極めて怪奇な形で描こうと努力する場合でさえ、それにあらゆる点で新しい本質を付与することは出来ないのであって、単に種々の動物のもろもろの部分を混ぜ合わせるに過ぎないから。それとも、もし彼等がおそらく、およそ類似のある何物も見たことがない、従ってまったく虚構であり虚妄であるというほど新しいものを案出するとしても確かに少くとも彼等がそれを構成する色は真なるものでなければならないのである。そし
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