信ずべきことは、聖書に教えられているところでありますから、まったく真でありますし、また逆に聖書の信ずべきことは、これを神から授けられたのでありますから、まったく真であります。まことに信仰は神の賜物でありまするゆえに、余のことがらを信ぜしめんがために聖寵を垂れたまうその神はまた、神の存在したまうことをば我々をして信ぜしめんがために聖寵を垂れ得たまうからであります。とはいえ、これはしかし、信仰なき人々に対しましては、彼等はこれを循環論であると判断いたすでありましょうから、持ち出すことができませぬ。そして実に私は、単に諸賢一同並びに他の神学者たちが神の存在は自然的理性によって証明せられ得ると確信いたされるということのみではなく、また聖書からも、神の認識は、被造物について我々が有する多くの認識よりもさらに容易であり、まったくその認識を有しない人々は咎むべきであるほど容易であることが推論せられるということに、気づきました。これはすなわちソロモンの智慧第十三章の言葉から明かでありまして、そこには、またそのゆえをもって彼等は宥すべからざらなり[#「またそのゆえをもって彼等は宥すべからざらなり」に傍点]、けだし彼等もしこの世のものを賞で得るほど知り得たりとせば[#「けだし彼等もしこの世のものを賞で得るほど知り得たりとせば」に傍点]、いかにしてその主なる神をさらに容易に見出さざりしぞ[#「いかにしてその主なる神をさらに容易に見出さざりしぞ」に傍点]、とあるのであります。またロマ書第一章には、彼等、弁解することを得ず[#「弁解することを得ず」に傍点]、と言われております。そしてまた同じ箇所にある、神に就きて知られたる事柄は彼等において顕わなり[#「神に就きて知られたる事柄は彼等において顕わなり」に傍点]、という言葉によりまして、神について知られ得る一切のことがらは、他の処においてではなく我々の精神そのものにおいて求めらるべき根拠によって、明白にし得るということが告げられていると思われるのであります。しからば、いかにして然るか、いかなる道によって神はこの世のものよりもさらに容易にさらに確実に認識せられるかを探究いたしますことは、私に無関係なことではないと考えた次第であります。
また霊魂に関しましては、多くの人々はその本性は容易に究明せられ得ないと判断いたしており、そして或る者は人間的な
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