則《すなは》ち運命なりと。故に英雄豪傑の不幸に淪落《りんらく》するは、其人の心、之を然らしむるにはあらずして、皆な天命神意に出づるものなりと。又、ゾホクレス、ヲイリピデス等の戯曲は多く此《この》傾きあるが如し。思ふに二氏が運命を解釈するは是と同一ならん。然れども是れ古昔陳腐の解にして近世詩学家の採らざる所なり。吾人は運命を以つて「都《すべ》て人の意思と気質とに出づる行為の結果なり」と解釈するものなり。シエクスピーヤの傑作も近松の傑作も皆な此解釈に基くが如し。又レッシングの「ガロッチー」シルレルの「ワルレンスタイン」も亦《ま》た皆な然らざるはなし。是を以つて知る、縦令《たとひ》罪過に拘泥するも、運命の解釈さへ誤ることなければ、決つして命数の弊に陥るの憂《うれひ》なきを。
近く例を探らんに、春のやの妹《いも》と背鏡《せかゞみ》、細君、美妙斎の胡蝶《こてふ》、紅葉の色懺悔《いろざんげ》及び鴎外の舞姫等皆な罪過あるなり。然れども皆な小説たるの体裁を失はず。只《たゞ》其間に彼此優劣の差あるは、一に罪過の発生、成長の光景を写すに巧拙あるが故なり。要するに罪過なきの小説は小説にあらざるなり。罪過なきの戯曲は戯曲にあらざるなり。罪過の発生、成長を巧みに写すこと能《あた》はざるものは、拙劣の作者なり。
アヽ罪過が戯曲、小説に於ける地位、斯《かく》の如く重要なり。敢《あへ》て罪過論を艸《さう》して世上の非《アンチ》罪過論者に質《たゞ》す。
[#地から2字上げ](明治二十三年四月一、二、三日)
底本:「現代日本文學大系 9 6文藝評論集」筑摩書房
1973(昭和48)年7月10日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:八巻美恵
1998年3月18日公開
2005年11月26日修正
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