驗される自然的生の構造である。しかしながら、現在がいつも無に歸することと死とは決して同一でない。自然的生においては、主體はその都度の現在に生きつつ、その現在がその都度滅び行くを體驗するのみである。しかるに死は過去より將來を通じて同一なる主體從つてあらゆる時を包括する現在の消滅を意味する。これは文化的時間性の段階においてはじめて可能となる事柄である。主體が文化的生にまで昇り、自己の統一性全體性の觀念が生じてはじめて死は問題となる。自然的生においてはその都度の現在はあるも一切を包括する現在は無い。かかる現在は客體面において又客體間の聯關を通じて自己を表現する主體を俟つてはじめて成立する。
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(一) Diogenes Laertius, X, 124 seqq. ―― Lucretius Carus: De rerum natura, III, 830 seqq. 參看。
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        一九

 しかしながら、すでにしばしば論じた如く、文化的意識に對しては嚴密の意味における無は存在しない。それ故、一切を包括する現在に浸つたまま遡つて生の根源
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