展を見ず、いつまでも成就すべくもない。直線的存在は畢竟中心の無き存在である。すでに述べたる如く、客體は主體を中心にもち、それを外へ表はし出すべき任務を遂げることによつてはじめて有意味なるものとして成立つのであるが、ここにはむしろ反對に、實現し表現すべき何の中心も自己もあり得ぬ單なる存在の等質的連續、果てしなき直線的連續があるのみである。
 以上は自然的時間性における根源まで遡ることによつて一層明瞭となるであらう。根源的體驗においては、現在は從つて存在はいつも無くなり行き滅び行く存在である。生ずるものは滅び來るものは去る。いづれも不安定的斷片的缺乏的である。これが時間性の根源的性格である。しかもこの性格が客體面に現はれたものが無終極性である。各の存在は無くなる缺ける落着かぬ存在であるが故に他の存在を要求し、かくて次へ次へとその要求は引繼がれ終極する所がないのである。言ひ換へれば、根源的時間性において有は無と離し難き聯關を保つが故に、客觀的時間において存在は單に他であることによつてのみ區別される次の存在へと移り行くのである。自然的時間性においては、存在は嚴密の意味における非存在によつて境ひ
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