に過ぎぬ。自然的時間においても或る意味においてすでに現在は過去と將來とを包括した。これは時が根源においては時間性として主體の性格として成立つことの必然的發露である。現在が首位を占めることは時間性のあらゆる姿の共通の特質をなすのである。しかしながらその共通の地盤を一足踏出すや否や道は分かれる。自然的時間においては現在は兩面において自己以外のものと境を接しそれの壓迫侵略に屈した。すなはちそれは一方實在的他者よりの拘束に從ひつつ他方非存在の中に滅び去らねばならなかつた。現在の内部的構造は宿命的必然性へのそれの服從を意味した。しかるに文化的生においてはかくの如き制限は撤廢され、必然性と拘束とを哀訴したものが却つて自由と解放とを謳歌するものとなる。そのことに應じて文化の世界客體の世界は存在のみの世界となる。そこには嚴密の意味の無や非存在の住むべき場處が無い。「考へられるものと有るものとは同一である」といふパルメニデス(〔Parmenide_s〕)の有名な句は文化的生のこの特徴を簡明に適切に言ひ表はしたるものとして典型的意義を有する。過去は存在の墓であることを止めてむしろ存在の泉となる。かくて時の
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