を離れて客體となる。しかるに客體の存在は主體へのそれであるに過ぎず、それの本質は主體に對して可能的自己乃至自己表現であるに存する故、その限りここでは自然的根源的時間における「將來」も「過去」も姿を消し、主體の時間的性格としての「現在」のみが殘る。文化的生の時間的性格は現在に盡きるといふも過言でない。主體は無くなつた過去を悼むに及ばず未だ來らざる將來をかこつこともなく、ただひたすら現にその中に生きる現在を樂しむのである。このことは、他者が純粹の客體性に留ることを少くも理想とする美的及び理論的觀想において最も完全に行はれる。時間性の觀點よりみれば、物の美しき又は眞なる姿に見入る喜びは現在を樂しむ喜びである。
かくの如く一切を支配し一切をその雰圍氣の中に包む主體の現在性の内部的組織に屬するものとしてのみ歴史的時間の「過去」と「將來」とは成立つ。兩者はここでは自然的時間におけるものと異なつた新たなる意義を得る。
それに新しき意義を與へつつ「過去」を成立たしめるものは「囘想」(又は記憶)の働きである。囘想の内容としての過去は無に歸した有の再現である。かくの如き再現の働きに、しかし又それの成果
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