合客體面が自己性の層乃至領域と他者性の層乃至領域とに分かれをることは、表現を象徴に發展せしめつつ實在者――この場合主體自ら――に關係づけ、かくして表現より認識への轉換を可能ならしめる。自然的生において實在者――この場合他者――の象徴として實在者(主體)の生内容をなしたものは、ここでも客體としての遊離状態を經て再び實在者の象徴として實在者の生内容たる意義を恢復する。この意味において吾々はここでも先驗的囘想の働きを見出すであらう。ただ客觀的世界の認識と異なつて自己認識は、根源的體驗において他者の象徴であつた觀念的存在者がその元の位置に復歸するのではなく、むしろ反對の方向を取つて新たに主體の象徴の位置に推し進められるのであり、從つてその限り復歸よりはむしろ前進を意味する。そのことと聯關して、第一、この認識は單に自然的生の主體に關してばかりでなく、あらゆる段階の生の主體に關して行はれ得る。第二、自己認識は自然的生よりの解放としては前進を意味する故、それの踏み出した歩みは更に新しきいはば高次の反省によつて新しき高次の客體の遊離へと進むであらう。ここに再び道は分かれる。正しき道はかくの如き高次の反
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