とつては死の外に何もないであらう。生が文化的段階まで昇れば象徴は同時に表現であるが、表現は必ずしも象徴ではない。任務を成遂げることによつて表現は却つて主體を自滅に誘ふが、之に反して象徴は自己をますます堅く他者と結びつつ存在の基礎を鞏固にする。表現は吾々を時間性より救ひ得ぬが、後に論ずるであらう如く、象徴をたよりに吾々は永遠の世界に昇るのである。
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(一) Cassirer: Philosophie der symbolischen Formen. 3 Bde. は文化のあらゆる領域を象徴作用によつて説明しようとする頗る注目すべき試みを示してゐる。
(二) 「人」と「物」との區別については拙著「宗教哲學」二九節以下參看。
(三) 本書第七章三六參看。
(四) 「象徴」に關しては本書は「宗教哲學」において説いた所に基づいて「表現」との區別を一層明確にした。「宗教哲學」五・二六・四一・四四・四五・四七・四八等の諸節參看。
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二 活動と觀想
八
論述の本筋に歩みを進めよう。前に述べた如く客體性は他者性と自己性、可
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