かくの如き純粹なる永遠及び永遠的生は時の眞中に生きるわれわれ人間にとつては全く超越的である。この世に内在する永遠は屈折しながらもなほこの世を照す光として體驗の範圍内に存し、從つて體驗内容を概念的に整理し擴充することによつてなほ概念的表現に移すことが出來る。啓示の體驗の及ぶ限り譬喩的表現のみ唯一の可能なる表現であるが、しかもそれは體驗の直接の表現として可能でもあり又許されもする。しかるに來るべき純粹の永遠は體驗の事柄ではない。それは現に啓示されては居らぬ。假りに啓示されたとすれば、屈折性を離脱してさながらの姿においてしかなされねばならぬ故、この世において可能なる唯一の表現としての譬喩的表現もそこでは全く無力とならねばならぬ。現實的生に對して克服及び超越の傍ら根源と完成とを意味するものとして、何らかの手掛りは與へられるであらうが、記述そのものは構想力の仕事、想像の領分に屬する事柄である。古へより預言や詩がこの任務に當つて來た。宗教的表象をなほ宗教そのものの立場に立ちつつ概念的に整理しようとする神學でさへ、この場合、上述の三重の性格にもとづいて、構想力の進むべき方向と警戒すべき岐路とを指し示
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