容である。
 しかしながら啓示の兩面性に應じて永遠性の光は時間性のレンズを通り屈折されてこの世に現はれる。神聖なる愛の交はりは人倫的共同としてのみ實現される。この對象の立入つた考察はもとよりここでは割愛されねばならぬ。吾々は永遠性の觀點よりそれがいかなる變貌を來すであらうかを一瞥すれば足りる。信仰においての如く、愛(人への愛)も決して單純なる純粹なる共同ではない。それは何よりも先づ共同への努力、他者への憧れである。それは共同の缺乏より出發せねばならぬ。すなはちそれはエロースの性格を擔はねばならぬ。從つて又それは何ものかの媒介を必要とする。媒介者はこの場合においてもそれ自らとしては觀念的存在者である。しかしながらここで道が別れる。純粹にエロースにおいては目標は他者における自己の貫徹である。そこには行くへに立塞がる神聖者の侵し難き尊嚴といふが如きものは無い。他者性の任務は、自己性の處理に委ねられそれの實現の契機をなすことに存する。之に反してアガペーは神聖者との共同を目掛けて進む。このことはそれの媒介者に侵すべからざる權威を與へる。カントが定言命法(der kategorische Impe
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