の外にいはば安全地帶に避難して純粹の有を保ち又樂しんでゐるといふが如きものではなく、克服されたる無が主體の存在の中心それの本質の核をなしてゐるのである。すなはち主體は――時間的表現が許されるならば――いつも又絶えず無を克服しつつあるのである。それ故、古へよりしか呼ばれてゐる如く、主體の存在の維持はいはば「連續的創造」(creatio continua)なのである。
しかしながら、かくの如く主體は幸ひに壞滅を免れるとするも、結局主體性を失つて絶對的實在者のうちに吸收され埋沒するのではなからうか。地の表面の突出は山と名づけられて自らの存在を樂しむ如く見えるが、實は地そのものそれの形それの有樣に過ぎぬ如く、神よりして神において神へと有り又生きる自我、自己を他者へ投出した主體、は結局絶對者の存在の仕方それの自己表現の形相として、全く表面的從屬的なる、いはば幻に近きかりそめの存在を保つに過ぎぬのではなからうか。主體性には自らの中心より生き又働くことが本質的特徴である。これは、無より救はれたる、しかし無を核心に有する、絶對者を離れては全く無に等しき、人間的主體においては全く不可能ではなからうか。
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